非人間的で、分析的な当事者発言

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

以下、強調は引用者。

 私が物語を直線的に語ることのできないときが、明らかに存在するのである。 私は脈絡を失い、再び始め、何か決定的なことを忘れてしまい、それをどのように織りなすかを考えることも困難になってしまう。(p.125)

 行為することはただちに、語りの構造を打ち破り、自己――私はそれを語りによって支配している――を失ってしまう危険をおかすことなのである。 実際のところ私は、崩壊――それは「行為すること」によって早まるかもしれず、あるいは私の確信によれば決定的に早まるだろう――の危機を避けるために、語りによる支配を維持しているのである。(p.147)

 暴力とは単に、私たちが受ける処罰でもなければ、私たちが被ったことに対する報復でもない。 暴力は物理的な可傷性を浮き彫りにする。 私たちはその可傷性から逃れることができないし、そうした可傷性を主体の名において最終的に解消することもできない。 可傷性は、私たちの誰もが拘束され、まったくバラバラに引き離されているわけではなく、むしろ剥き出しのまま、互いの手に、互いの寛容に委ねられているのだと理解する手段を与えている。 この状況は私たちが選択しているものではない。 この状況が選択の地平を形成し、私たちの責任の基礎をなしているのである。 そうした意味で、私たちはこの状況に対して責任を負っているのではなく、この状況こそが、私たちが責任を負う条件を作り出している。 私たちはこの状況を作り出してはいない。 だからこそ、私たちはそれに留意しなければならないのである。(p.187-8)

 一方で、彼〔フーコー〕は自分自身に歴史的連続性を確立している。 他方で、彼はきわめて明白に、現在についての記述は「つねに一種の潜在的な裂け目にしたがってなされなければならない」と語っている。 この裂け目は自由を開くものであり、可能な変容を創始し、みずからの時代を条件づける限界を疑問に付し、その限界において自己を危険に曝すものだと述べられている。 「裂け目」とは、所与の合理性様態の固定性を疑問に付すような批判行為のかたちだと思われるが、ここでフーコーは、自分がつねに自己同一であったように見せるような仕方で自分自身を語り始めている。(p.225)

 狂気についてフーコーは次のように述べている。 「まさにある者たちが他の者たちに対して行使する支配のある様態を通じて、主体[=患者]は他者として提示された自らの狂気について真理を述べようと企てることができたのです」。 彼が自分自身について行なうことのできる説明が、他者やその言説による支配に負っているとき、ここではいかなる対価が支払われるのだろうか。 彼が自分自身について語る真理は、支配についての真理を語ることができるのだろうか。(p.228)


    • 私たちはお互いに、自由にできない条件として曝され合っている。 お互いに相手が「自由にできない条件」。
    • 「自分を語る」とは他者に向けた行動であり、実存のまとまりを作りつつ、かえってそれに裂け目をもたらす。

「自分を説明する」とは、一般にはナルシシズムの所業とされるが、本書でバトラーは、それをむしろ「ナルシシズムに抵抗する手続き」と捉えている。 ナルシシズムは、「倫理的暴力」として、自分を語ることの対極として糾弾される*1。 単に自分を正義にする語りは、自分の語りの「潜在的な裂け目」に気づかず、自分を含みつつ起きていることのディテールを無視する。

 私たちの中には何か揺るぎないものが根づいており、それは私たちのなかに居座り、私たちの知らないものを構成し、私たちを可謬的な存在にしている。 他方で、実際にはあらゆる人間が自分の可謬性と戦わねばならないのだ、と言うこともできるだろう。 しかしアドルノは、この可謬性に関する何かが、人間的なものについて語ったり主張したりすることを困難にするのであり、それはむしろ「非人間的なもの」と理解されるのではないか、と示唆しているようである。 その数行後には、彼は「真の不正は本来つねに、自分を盲目的に正義の側に、他者を不正の側に置くまさしくその点にある」と述べているが、そのとき彼は、道徳性は自己断定を慎むことであると提起しつつハイデガーの決意性〔Entschlossenheit〕に反論しながら、道徳性を自制の側、「参与しない」側に位置づけている。 (略) 初期実存主義の公式において、人間的なものが自己定義し自己断定するものと定義されているとすれば、そのとき事実上、自制は人間的なものを脱構成することになる。(p.194-5)



「人間的なもの」に従って正義を語る者は、自分のことをいっさい語らず、「常に正しい」ため、私はその人に従わざるを得なくなる。 私はその人のナルシシズムに支配される*2
語ることが含んでしまう裂け目を問題にすることで、「ヒューマニズムの非人間性*3とは別のしかたで、徹底的に「非人間的な」*4ものに取り組み続けることになる。 私が理解する当事者発言とは、この《非人間的な要素》を問題にし続けるような苛酷さだ。 それはたんに「自制すること」ではなくて、自分の置かれた状況を冷酷無比に分析し続けることであり、ある種の “人間的な” ナルシシズムを毀損する。 自分の “人間的な” 思い込みを徹底して破壊する。 その無慈悲さをこそ「自分を語ること」、「当事者発言」と呼びたい。*5


本書に不満があるとすれば、「自分を説明すること」が、「関係を分析すること」とあまり結びついていなかったこと。 個人に照準した精神分析的な議論と、アドルノ的な「傷/弁証法」、フーコー的な「真理/権力」などに終始していて、私たちの為しうる抵抗が、「具体的に生きている関係を分析する」ことと一致し得るという文脈が、見えてこなかった。――バトラーにおいては、「抵抗する自分自身」はどうやって構成されるのだろう。 いわば、「動機づけの過程論」が見えない。 レヴィナスを通じて取り上げた「受動性以前の受動性」(p.164)は、そのあたりの話だと思うのだが。 本当にラディカルな自発性は、最深部の受動性を通じてしか体験されない。 無理やりの積極性は、むしろ「自発性=必然性」を毀損し、強引なナルシシズムに落ち込んでしまう。(今は誰もかれもが、取ってつけたようなアリバイ作りばっかりだ。アリバイ作りで押し切った者が勝ち残っている。)


フランス現代思想には、「本人が自分で語る」というモチーフを重視したように見える思想家が何人もいる*6。 ところが、日本の「動機づけ」や「当事者発言」の文脈はそうした蓄積をあまり参照できていないし、そもそも、フランス現代思想を研究しておられる研究者たちは、若年就労問題に味方することはあっても、なぜかご自分たち自身の当事者性において語ってくださらない。――「当事者性」と言っても、自分の弱みを見せろとかではなくて、「現在の境遇における業界や勤務先の事情」については、いくらでも “当事者的な分析” ができるし、それこそが必要だと思うのだ。 思想家の名前を挙げて「差別や権力に抵抗しなければ」などとお題目を言うより、静かに周囲を分析してみせるほうがよっぽどラディカルな “抵抗” に思えるのだが、どうだろうか。(わかりやすい正義を語ることは、「語っている本人がアリバイ作りのためにふるう暴力」でもあり得るというのが、本書で繰り返されたバトラーの告発だった。)
「自分自身を説明すること」とあからさまに題された今回のバトラーの翻訳本は、そういう意味でもエポックメイキングというか、貴重なきっかけをくださっていると思う。 どんな立場にある人にも、非人間的な、分析的な当事者発言が待望されているのだ。



【付記1】

本書には、訳者による長文の解説が付されているのですが、気になったのは、これが理解を深めるためにほとんど役に立たないことです。 バトラーの本文から繰り返し長々と引用しつつ、同じことをわずかに言い替えただけの “解説” になっている。 ありていに言うと、訳者は『自分自身を説明すること』という本を訳しながら、ご自分は「自分を説明する」というプロジェクトを拒否しているように見えるのです。
バトラーはセクシュアル・マイノリティとして “当事者” だといいますが、この本で問題になっている当事者性はそういう明示的なマイノリティ性とは別の、誰にとっても問題にする必要のある当事者性だと思うし、それは「自分語り」とはまったく違う。 「あなたは、自分で自分のことを語る用意があるんですか?」という、非常に苛酷なことが問題になっているはずなのに、今回の訳者解説は、それを「解説っぽいそぶり」で回避しているように見える。 「アカデミシャンとして仕事をし、正確を期すためには、仕方がなかった」のでしょうか。――むしろ、こういう解説文になった事実を素材に、訳者ご自身の「自分自身を説明すること」を伺ってみたいです。



【付記2】

今回の本に欠けていると思ったもの、もう一つ。自分のことを非人間的に、分析的に語り得ている時には、その作業の最中には、むしろ忘我的に、自分のことを忘れることができる(書いていても、語っていても)*7。 自分のことを意識しながらしか語れていないとき、つまり自意識に監禁されたままでしかない時には、自分についてはまだ何も語れていないのだと思う。
分析のプロセスそのものが、疎外を回避させる創造のプロセスになる。――問題は、その過程と結果がたいていは周囲から忌避されることだ。また、その営みが実際に効力を持つためには、単に敗北していることはできない。分析の営みは、どうやって他者との力関係に入れるだろうか。(たとえばジャック・ラカンは、精神分析的な語りを維持するために、「学派を作る」という行動に出た。)




*1:単に「自分語り」でしかないような当事者語りは、それ自体がナルシシズムの暴力だといえる。

*2:同一性に回収される「自分語り」において、その人は自分の体験した「潜在的な裂け目」を黙殺している。裂け目を尊重しない語りは、予定調和的な統一に回収される。 ▼ほとんどの左翼系の人たちは、イデオロギー的な、つまり「人間的な統一性」に向けてしか語らない。その意味で極めて暴力的だ。

*3:ヒューマニズムとテロル (メルロ=ポンティ・コレクション 6)』、『暴力と人間存在』に掲載されている、合田正人の論考を参照(特に前者は必読だと思う)。

*4:参照:「非人間的

*5:バトラーの言う「自分自身を説明すること」も、そういう苛酷なものだと思うのだが、それが過剰な人気を得ているとすれば、何かそれは、自分たちマイノリティを無条件に肯定してくれているものと、勘違いしているのではないだろうか。 「自分を語る」ことは、自分の足場やアリバイをも突き崩しかねない、そういう可能性まで含めた、苛酷で内発的なチャレンジのはずだ。 ▼フーコーは、「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と語っていて(参照)、私は最初は何の事だかさっぱり分からなかったのだが、これはバトラーに重ねて言うならば、「自分の生きている枠組みを問い直し続けろ(自分を説明する作業を続けろ)」という意味だろう。 何度も言うが、これは単なるマイノリティ肯定や安全なナルシシズムではなくて、ものすごくしんどい作業を要請していると思うのだ。

*6:フーコードゥルーズガタリラカンなどは、お互いに批判はしているが、それぞれなりの流儀で、「本人が自分で語る」というプロセスを重視していたと思うのだが。

*7:そこで気づいてしまった問題構造の多くは、「公開できない理解」になってしまう。とはいえ、黙っているだけでは、何も変えていけない・・・。(一つ知るだけで、業界事情が透けて見えてしまうオフレコ話がどれほど多いことか。どこの業界でもそうなんだろう。)