内藤 → 上山 (11月11日)

上山様


上山さん。こんにちは。今、追いつめられていて、よく練った長い文章をかけないこ
とをお許しください。走り書きになります。


上山さんの文章を読んで、こんなふうに「当事者」概念を鍛え上げることができるも
のだと、敬意を覚えました。
実をいえば、上野千鶴子氏の「当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))」のくだらなさと水準の低さに辟易し、 い
ろいろ下劣な人たちにつき合わされて、「当事者」という切り口をはなから馬鹿にし
ていたところがあります。
でも上山さんの「当事者」倫理学は、深みがあり、他の論者に比べて比較的整合的
で、さらに高貴ですらあります。
このようなすばらしい考えに出会えたことを感謝しています。


何とでも言えるがゆえに無意味な「ニーズをもつ」うんぬんでもなく、文化大革命
のゴロツキが因縁をつけてすごむスキルでもなく、「内的不調和の刻印」を原理的基
底とした当事者概念は、狭くて深いある一定の守備範囲をみごとに描き出すものであ
ると確信します。


これは倫理の書として出版すべきであると思われます。わたしは、わがことよりもさ
きに上山さんの倫理学を世に出すべきことをアピールしたいと思います。


わたし自信もこの「内的不調和」に苦しんで生きてきましたし、上山さんが挙げるい
じめ被害者の話しは、対象が違うだけで同じ体験をしてきたといってもまちがいあり
ません(わたしは生徒同士のいじめの被害者ではありませんが、「納得するために
は、父親を殺すしかない」というリアリティを深いところで生きてきました。最近
やっと薄れてきましたが……)。


ただし、倫理の水準と、公的な領域での正当性の争いの判定基準の問題は、まったく
べつです。
でもそれも上山さんがすでに指摘なさっていることですから、着目して声を大にして
文章にして発信したい強調点の違いに過ぎないような気がします。


上山さんの内的不調和に着目した当事者への着目と、わたしの他者のリベラリズム
の着目は、裏表で貼り合わせるべきものだと思います。


〈他者〉性に着目し、それが倫理の方向に展開すれば上山さんの当事者論になるし、
それがリベラリズムの方向に展開すればわたしの他者のリベラリズム論になるのだと
思います。


杉田俊介氏が稲葉振一郎氏にかみつくのは、悪しき当事者主義の例のように思いま
す。あの憎み方と攻撃のしかたはいけません。倫理的には杉田氏は稲葉氏に「すくな
くとも」無関心であるべきです。つまり砂場で遊んでいる池田小学校の児童をナイフ
で刺してはいけない、ということです。わたしは「たまたま」恵まれない「内的不調
和」の徒ですが、恵まれた子どもが恵まれない子どもと無縁に無邪気に遊んでいるの
もまた美しいと思います。恵まれない者も恵まれた者を、きちんと〈他者〉として遇
するべきです。


ここで、特定の倫理的スタイルが、そのまま公的な正しさをめぐる非難の基準になっ
てはならない、というリベラリズムの基本が生きてきます。もちろん、もとより公的
な正しさの基準で稲葉氏を非難しているのではなく、怒りをぶつけているのだとすれ
ば、さらにそれは下種な「内的不調和者」の呪いになってしまいます。それは「内的
不調和」の徒の最悪の姿です。呪いは真理ともっともかけ離れた行為です。


わたしがアメリカ・スタイルではなく欧州スタイルにこだわり、脱ア入欧を叫ぶの
は、まさに経済の領域という柱でささえないと、多元的な他者の海を維持できないか
らです。上山さんが地域通貨に興味を寄せるのと、わたしが欧州スタイルに興味を寄
せるのは、同じ動機に基づいているのですね。


上山さんと出会えたことをこころからうれしく思います。これからもよろしくお願い
いたします。


実はわたしも、このやりとりをブログに載せようと思っていました。上山さんの方で
も、どうぞよろしく公表なさってください。


内藤朝雄