- 「引きこもりの問題はカネさえあれば解決する」という言い分を聞くことがある。
- 成熟した資本主義社会である日本では、文化的に「脱社会的」であっても、お金さえ持っていれば、経済的には制度内の存在でいられる(という意味だろう)。
- 「カネさえあれば」というのだが、それは「タケコプターさえあれば」という仮定に近い。多くの自殺者は経済的理由によって死んでいる。彼らだって「カネさえあれば」死なずにすんだのだ。
- 就労の局面においては、文化的要因から「脱社会的存在」にさせられてしまうことが多い。年齢差別や「履歴書の空白」など。「経済的効率性」は、文化的排除の口実となることがある → 逆に言えば、文化的排除は経済的実績によって覆すしかないのかもしれない。
- 「社会の外に追いやられた存在=弱者」について。
- 社会保障というのは、放っておけば競争社会の中で「脱社会的存在」になってしまう弱者を、ふたたび「社会」のスキームの中に繰り込むプロジェクトだろうか。
- 杉田さんの言う「弱者が弱者を叩く」構図も、「俺とお前でどっちが内部的存在か」という椅子取りゲームみたいなものか。最初から内部的存在たりえている人はそういう惨めなバトルをしないですむわけだが、「仕事をしないで生きられる」人以外はつねに脱落の恐怖に怯えているし、実は資産家といえども、その資産家としての生き方を「社会に承認してもらう=内部的存在として扱ってもらう」必要があるのではないか。
- 前段とも関係するが、とにかく「経済的脱落者」にならないことが最優先課題だと思える。
- 引きこもりは、「脱落者が親に保護されている」状態*1。
- 家を追い出せば、それは単純に「保護されない弱者」として排除され、死に近づく*2。それは「だから同情してくれ」というのではなく、「別の形の社会問題になるだけ」ということ。
- 「自分は社会から排除された存在だ」という当事者の意識は、おそらく必要以上に肥大している。もちろん、イジメ被害や経済的挫折からくる絶望ゆえだろうが、「必要以上に」肥大させる必要はない → その絶望的自意識をつつきまわして楽しむのがヒキコモリ批判者たちだろう。
- 実は、引きこもり当事者を軽蔑し排除する機運が高まれば、当事者の絶望は現実的なものとなる。文化的排除は、明らかに経済的排除につながるからだ。
「競争を激化して脱落者は切り捨てる」のか、それとも「なるだけ脱落者の出ないシステムを目指す」のか。 → これはそのまま政策論争ではないのか?