「同化する」と「社会化する」は、どう違うか?

小山エミ氏へのお返事が長くなったので、ブログ記事にまとめます。

今ここで完結するような「答え」は私には作れませんが、
議論を整理し、勉強をし直すのに重要な刺激を頂きました。

これは違います。私が考えていたのは、
アメリカ大陸の先住民を中心に考える」ということなので。


ただしこのご指摘によって、自分が自然法的な発想」と、「国家との関係で考える」こととの区分を、うまく出来ていなかったことに気付きました。


そう考えると、↓このご指摘も奇妙に思えます。

自然法的に考えるなら、「主権を返す」って、変な言い方ですよね。

最初から殺すことを最優先にした方針と、同化を目指した方針とを いきなり同一化するのは、乱暴に思います(同化を肯定するということではないですよ)。

たとえば左派系の人たちは、全人類が自分たちと同じ思想に染まることを求めていますが(同化への要求)、いきなり全人類を殺してはいませんよね(左派は、ご自分たち自身が誰よりも占領支配をやりたがっていることを忘れています)。私は、現状の左派に機能しているような同化の暴力を絶対に認めませんが、それと文字通りの虐殺宣言をいきなり「同じだ」と言ってみても、過剰表現にしかなりません。*1



どういう《同化≒社会化》が為されているか

これは、不登校や引きこもりとの関連で「教育の強制性」や、「社会人としての正常さ」の問題を思い出すと、とても大事な点に思えます。


以下、直接のお返事とはズレるかもしれませんが、
関連して考えたことを記します。


論者の中には、強制・矯正の要因をともなう《教育》というモチーフを極端に嫌う方もおられます*2。一方しかし、幼児期に「読み書きソロバン」を強制しないと、本人はその後、ひどいことになる。「恨まれてでもいいから、文字を教え込まないとまずい」という同化の努力が要ります。*3


あるいは労働に参加できない(しない)人について、「正常な社会人にしよう」というのは、支援事業の行政的承認においては必要なお題目かもしれませんが、これは実は、たいへん暴力的な同化命題であり得る。▼そして一方やはり、「ありのままに」は、たんなる不作為です。

「脱植民地化 decolonization」は、
私は「脱領土化 déterritorialisation」というフランス系の議論との関係で考えています。この場合の《領土》は、ふつうの意味での領土だけではなくて、経済的・文化的な支配のことでもありますね。


ある存在が《社会化》されるときには、
何らかの《同化≒植民地化≒領土化》がある。


そうすると、脱-植民地化 や 脱-領土化 をいうときに、

  • 「生き残った先住民・幼児・病者等を、天然自然の自発性に任せて、ありのままに温存すればよいのか」

という話になる。*4


《ありのままに》というのは、「先祖伝来の純粋な民族性」という発想にもありがちだし、これは不登校や引きこもり周辺でも、くり返されるイデオロギーです。 ex.「学校に行けない子供の純粋性を、大人社会が毒してしまう」「ありのままの自分」など。


つまりここでは、

 同化されず、純粋なままに社会化される

――そういうスタイルが求められている。


純粋性の担い手、という想定のもとに、
《当事者》という名詞形の概念が忍び込んでくるのも、
このあたりのことです。



良い人類学と、悪い人類学*5

  • 良い人類学は、関係を持つことを通じて、観察している自分の側を問い直し、関係そのものをもう一度作り直す。
  • 悪い人類学は、「純粋伝統の外部から、その純粋さを観察する」というスタンスをとる。



悪い人類学は、一方的な《対象化》の暴力であり、

  • 「対象を誤って純粋化しているのは自分である」という理解を拒絶する。
  • その「純粋対象」を守ることを正義と勘違いする。*6

たとえば閉じこもる人は、「ひきこもり」などと名詞形で呼ばれて、純粋な対象とされ、差別され、保護される。そうして、この役割に監禁されます。(ある個人が、「民族名」に監禁されるように)


現状の正義言説の多くは、この「悪い人類学」みたいなスタンスをとっていると思います。論者はあくまでメタにいて、マイノリティを対象化する。基本的には「全面肯定」ですが*7、相手がメタ論者としての自分を認めてくれないと、ひどい黙殺が始まる。――「無条件に尊重する」と言いながら、無条件ではなかったわけで、ここにダブルスタンダードがあります。



同化を拒絶するためのスタイル

問題は、

 同化の拒絶が、純粋性の前提をもっている

ことです。ここで社会化は、「純粋性の温存」の形をとる。ここで温存された純粋性は、別の機会には、同化の暴力になる。(たとえば、温存された民族的純粋性)*8


必要なのは、

 同化の拒絶を、実体化の諦めと同時に進める

ことでしょう。ここで社会化は、手作業の内的生成にまみれます。
民族浄化も、資本も左翼も、この《手作業》を同化する暴力です。*9


純粋性の前提を持ったままでは、「異種混交性」という理念は、色とりどりのビー玉が同居するみたいなものですが――これはバカげています。



名詞形「当事者」の特権化と、動詞形のやり直し

私が《動詞形の》話をしたいと言い、だから当事者という名詞形ではなくて、当事化という変な言葉でやり直すしかないと言っているのは、純粋本質主義でもなく、あるいは単に放置しあうだけの不作為でもないような、その都度やり直すような話がしたいわけです。


《正常/異常》についても、「障碍者」とカテゴリ化する技法をやめて、関係そのものを動詞形で生きなおし続けるようなスタンスを、採用できないものか。たんなる相対主義でも、たんなる不作為でもないような、関係づくりそのものを制作過程に置くようなスタンスです。*10


名詞形「当事者」に基づく相対主義や不作為では、
過剰な特権化で、それぞれが「ひきこもる」しかありません。


たとえば、民族主義を肯定するみたいにして、「ひきこもりの全面肯定」を言う論者がおられるのですが――その主張の皺寄せは、扶養を押し付けられる家族にのしかかる。


「当事者」として囲われたマイノリティを守るために、
スタッフ側に回されたご家族には、強制労働が科せられる。
――あちこちに見られる、理不尽の回路そのものです。


これは、

  • 被害者とされた「民族」を特権化し、誇張や虚偽の証言すら全面肯定。加害者とされた「民族」には反論の機会も与えず、永遠に加害者の役割を担わせ続ける。
  • 《加害者/被害者》のポジションが純化され、固定される。双方において、純粋な「民族」概念が前提になる(それが前提にされているという意識すらない)。
  • こうした概念操作そのものが同化の暴力となっているが、「関係の再生産が暴力の再生産になっている」という検証が行われない。関係づくりそのものにおける練り直しや、やり直しがない。

こうした事情に重なります。


脱植民地化というと、多くはこうした発想にはまり込むのですが
――小山さんのお話は、これとは違うものでしょうか。



既成事実と化した占領支配の強さと、責任の設計図

「われわれ」とは誰のことでしょうか。


「交渉すればいい」というご提案には、純粋当事者主義ではないものを感じるのですが――それが《交渉》である以上、相手が民族主義の立場に出てくる可能性もありますね。

またそもそも、徹底的な虐殺と占領支配で既成事実(アメリカやオーストラリア)を作ってしまえば、たいした賠償もなくこんな一方的な「交渉」が許されるというなら、それを最初から目論んで、文字通りの虐殺や占領支配をやり尽くしたほうが良い、ともなりそうです。


「日本」というまとまりは、「強制があったのではないか」という嫌疑で莫大な政治責任や賠償を要求されているわけですが――先住民を大量に殺し、今も占領支配を続けるアメリカやオーストラリア(の移住者およびその末裔)にふさわしい責任の取り方は、どのようなものだとお考えでしょうか。それは、社会化のやり直しであるはずです。



*1:左翼による虐殺が生じる可能性は常にある(し、現に生じている)のですが、道徳的な糾弾だけではどうにもなりません。

*2:ニート論との関係では、内藤朝雄氏が有名です。 cf.『「ニート」って言うな! (光文社新書)

*3:同様の論点が、《近代化》という言葉のもとで、国や民族の関係で反復されているのは、よくご存知だと思います。

*4:ここで、たとえばセクシャル・マイノリティと、教育やひきこもり(における弱者性)は、同じ発想では考えられません。セクシャル・マイノリティについては、性的指向等を「ありのままに」認めれば良いだけですが、教育や引きこもりでは、ご本人への放置は、間違った不作為であり得るからです。

*5:ここでは人類学としましたが、レッテルを設定してそれを「調査」するという意味で、社会学にも言えることです。

*6:ここでは、意識や関係の技法が固定されます。そもそも、技法が問題になるという理解が欠如している。

*7:少数民族セックスワーカー・ひきこもりなど、弱者性や有徴性がカテゴリ化され、「肯定」される。▼肯定のそぶりにおいて正義をやっているつもりでしょうが、「カテゴリ化した上で肯定する」という名詞形前提の話が、最初から差別の再生産になっています。

*8:文化的な支配は、日本やアメリカの領土的支配だけにあるわけではなく、「正常化」されたフィールドには、常に生じていることです。▼たとえば「朝鮮」と呼ばれる文化も、過去にいくつもの「逸脱」をつぶす形で統一されてきたはず。それはつぶされた側からすれば、同化の暴力でしょう。

*9:たとえば「日本」を、民族ではなく、制作上の技法やセンスと考えれば、実体化とは別の話になるはずです。

*10:行政手続き(ペーパーワーク)では、名詞形のレッテルが必要になるのですが――そのレッテルそのものを手作業に送り返して、あくまで《制作プロセスの中に》位置づけられないでしょうか。