疑問など

  • 絶対的な「愛の剰余」にとって、確定記述レベルは本当に関係ないだろうか。
    • 代替可能なレベルで「素敵な人だ」と思う段階を経なければ、愛情には進めないのではないか。
    • いったん愛情を抱いたあとに、「こんな人だと思わなかった」と「愛が冷める」ことはないだろうか(いや、それは「特殊性を単独性と勘違いした」ということか)。いったん愛した対象は、いつまでも単独的か(憎しみに転化してでも)。


  • アリストテレス」は固有名詞だが、僕は彼を愛していない。「お母さん」は普通名詞だが、この語を動揺せずに使うのは難しい。
    • 語句レベルでの「固有名」と、愛情生活における「固有名的存在」はちがう。たとえば「名もない犬」に「固有名的愛情」を注ぐこともできる。
    • 私たちは「固有名」のすべてを愛するわけではない。だが、愛には必ず固有名(単独性)の構造がある。


  • 「有名人」や「キャラクター」は、「確定記述の束」ではないか。
    • 長時間にわたって有名人やキャラクターの情報に晒されることで、「特殊性」が「単独性」に質的に変化するのだろうか。*1
    • 知人を含むどんな相手に対しても、単独性の要因は少しずつ含まれる。「特殊性が単独性に質的に変化する」というよりも、「単独性の度合い」の量的変化か。「どうしてもこの人でなければ困る」の度合い。
    • 僕の「フィクション親和性の低さ」は、特殊性を形成する「キャラ設定(確定記述)」が、いつまでたっても「単独性」になってくれない、ということではないか。
    • 「萌え」とは、「単独性への愛」ではなくて、「確定記述への愛」(?)という状態ではないか。


  • 性愛の対象として単独化する存在は、複数であり得るだろうか。
    • 『Rk にとって、「Wy の代わりはいない」けど、Wy がいなければ、そういう歴史をまた積み重ねてゆく相手が現われるのだろうとおもってる。』*2――これはとても新鮮で、鮮烈なショックだった。単独的な「愛する人」は、人生でたった一人しか見つけられないし、そうであるべきだと思っていた。
    • 通時的に複数が見つかるとしても、共時的に複数が並存することは可能だろうか。
    • 「親の子供への愛」は、共時的に複数であり得るが。


  • 「キスイヤ!」に登場した、同性愛男性と異性愛女性*3カップル。女性は彼に対して「恋愛感情」を持ったが、男性は彼女を「友達」としか見れなかった。
    • 「単独性」(愛の剰余)にとって、性愛要因はどこまで重要だろうか。「恋愛対象」としての単独性と、「友人」としての単独性には、違いがあるのだろうか。
    • 親子の愛は、性愛ではない。


  • 「日本」は「特殊性」(確定記述の束)か「単独性」(剰余)か。
    • 三島由紀夫 「文化防衛論」。何を「防衛」するのか。
    • ジジェク象徴天皇制を肯定したが、あれは「日本」という固有名の絶対性を言ったのではなくて、「象徴界に空いた穴」の話をしただけ。 → 彼は「世界中の国に同じ制度を置くべきだ」と言ったのだ。


  • 「言語を用いる」ことは、差異の体系をこねくり回すことであって、その作業自体には固有名的な単独性はない。
    • ほとんどの発話は、紋切り型のルーチンワークにすぎない。創造的=単独的と言い得るほどの発話はほとんどない。
    • 言語生活において私たちを単独的にするものは何だろうか。


  • 労働行為は特殊性に還元される。労働において固有名(単独性)を生きようとするところに、自意識の苦痛が生じる。
    • 時間をかけたキャリアの蓄積が、労働における固有名的尊重を生む(時間が愛を育むように)。しかし、性愛において「単独的に愛される」以上に、労働において「単独的に尊重される」ことは難しい。
    • フリーターはいつまでたっても単独的には尊重されないし、特殊性としても評価されない(わざわざ記述されるべき特性すら持たない)。
    • 流動性の激しさ」は、存在のすべてが特殊性に還元されてゆく状態を指す。固有名的尊重を持たない世界。




*1:個々の「はてなダイアラー」も、サイトのデザインや文字・写真を通じてキャラ立ち(単独化)する。

*2:同じく「かけがえのなさとそのわけ。」より。

*3:「同性愛=ゲイ」、「異性愛=ノンケ」という表現は、男性・女性どちらにも使えるんでしょうか。それとも男性に対してのみ?