「性愛的承認」 → 「単独的承認」?

16日のコメント欄はものすごい豊作で、本当にありがとうございます。ここで提起されている諸問題については繰り返し立ち返ると思うのですが、ここでは id:jouno さんの書き込みより。
僕にとって決定的だった書き込みを引用しますが、その前にこちらを、リンク先とともに読んでみてください。

# id:jouno 『僕が誰かに肯定される。あるいは肯定する。でもそれが二人の関係の性質だ、というとき、あるいは、恒常的にそういうことがおきてるんだ、というとき、それは、安定して起きる現象なわけですよね。ということは、二人の関係が、そういう承認、承認の感覚を、恒常的、安定的に生み出すような性質を持っている、ということになる。それは、二人という社会における制度だと思うんです。で、制度である限りで、やっぱりそれは、イメージを媒介にしたものになるんじゃないか。ざっくりいうと、固有名の循環「おお、ロミオ」は、そのことによって、ある一般性を運んでいる。なんといったらいいか、ロミオという言葉にはそこで社会的に説明できるような概念は込められていないと思いますが、そこには、二人という「対」の社会における「イメージ」がこめられているんじゃないか。そして、このようなイメージは、その「魂」「至上の愛」ゆえに、目の前の単独性とは、どこまでもずれざるをえない。
 一度目、おおロミオ、といったとき、それはある単独性の現前かもしれません。それが個別の交渉の効果ということです。しかしもう一度、ロミオといったとき、そこにはもはや、ロミオのイメージが現前してるんじゃないか。そしてそこに愛のイメージを見るからこそ、代替不可能性が感動的になる。もしもロミオということで常に感動が喚起されるなら、それはイメージが媒介としてすでにあるからです。単なる代替不可能性は別に感動的じゃないんですよ。かけがえのないあなた、とひとはいう。しかし、たんにかけがえのないことは感動的じゃない。そうではなくて、かけがえが理屈の上ではあるのに、あなたしかいない、から感動的なんです。
 かけがえのないことがある単独性として「美しい」のは、その単独性がすでにある「類」との相関関係にあるからじゃないか。六十億の人間のうちの二人が出会った奇跡という。このとき、これが奇跡的であり、感動的な偶然としてたち表れるのは、それが、六十億という数の類が背景にあるからです。つまり、これは、「数字」の単独性なわけです。5番と345番が出会ったのは感動的だ! なぜなら5番も345番もひとりしかいない! 単独的! でもこれは数字という反復可能性、一般性をメタレベルの基礎として持っている。(というのがうろおぼえのデリダだったりしますが)
 すいません、なんか僕もまとまらず混乱してきましたが、固有名論的なところでの単独性が、一般性と対立関係にあるというのは性格ではなくて、とくに、性愛的関係における単独性の感覚「どんな属性でもあなたが好き」は、二人における想像的制度じゃないかと思うわけです。「どんな属性でもあなたが好き」という単独性言明は、解決不可能なアポリアがあるんですよ。だって、どんな属性でもいいんなら、相手が特定できないじゃないですか。どれが「あなた」なのか区別できないですよ。それが意味をなすのは、相手が一人しかいない閉じた世界、対幻想的鏡像関係の内部だけです。*1

これだけの密度を持った書き込みを頂いたことは本当に驚き、というより誇りであり、id:jouno 氏に心より感謝いたします。これからもくり返し再読するでしょう。
このコメントについていろいろ考えているうちに、問題設定がもう少し広く深い(と思われる)ところにシフトしていきました。それはひょっとするとせっかく頂いたコメントで生じた緊張感を損なうことかもしれないのですが、僕としてはこの仕切りなおしに意義があると信じ、チャレンジしてみることにします。





*1:赤字・太字強調、段落分けを勝手にさせていただきました。