拒絶の2つの理由

今回の「天皇」云々の提案について、引きこもり関係者(とりわけ当事者・経験者)からの反発がどうしてこれほど激しかったのか。実は僕自身、1経験者としては痛いほど思い当たりますし、そこを「あえて」やっているところがあります*1


拒絶や反発の理由はいくつか思い当たりますが、暫定的に考えているのは大きく次の二つです。

  • ひきこもっている人は、絶望的なまでに「孤立している」わけですが、「天皇」というのは、「私を抑圧してくる多数者たち(“みんな”)」の文化装置。
    • 「私は、糾弾され排除される側に回っている。その私が天皇を尊崇するとは、これほど屈辱的なことがあるか。」*2


  • 「日本」「天皇」は、機能的で代替可能な(つまり「確定記述の束である」という意味において「特殊的」な)存在でしかないはず。なのに「単独的固有名」を詐称しているのではないか。*3
    • 「私の純潔な自意識は、そのような存在のためにピュアな愛的忠誠(単独的固有名に向けられる感情生活)を捧げるわけにはいかない。」



僕自身、他人事ではありません。でも、少なくとも「天皇」という存在を問題にすることで、こうした問題そのものをクローズアップできる(議論のテーブルを明確にできる)のではないでしょうか。



*1:宮台氏の「あえて」は、「本当は信じていないが、(そうする他ないので)信じているフリをする」ですが、僕は「実際の有効性に希望があるなら、反発があっても可能性を検討すべきだ」という意味で「あえて」と言っているので、(有効性への望みをベタに残しているという意味で)シニカルではないと思うのですが、それって宮台氏と同じでしょうか…。僕自身には、「冷笑的」なつもりは毛頭ないのですが(だからこそ、「恐いほどユーモアがなくなってしまった」と言われる)。 【そして、それが「本気で国を愛せ」ではなく、「(ジジェク的な)≪形式≫を本気で尊重せよ」というメッセージなので、ややこしいのですが。 → それは理論的には、もうすでに批判され尽くしたのかな?…】

*2:現実の文脈としては、引きこもりを糾弾しているのは保守・右翼です。

*3:三島由紀夫なら絶対に許さない見解でしょう。これについてはまたちゃんと考えてみたいです。