「具体的な処方箋」のために

「上山さんがブログでしている考察は、空虚な抽象論であって、まったく意味がない」という主旨の指摘を立て続けに受け、ゲンナリ。「ひきこもりについては、難しいことを考える必要はない」。
対人支援の現場での、個別的なカウンセリング・テクニックや、就労支援・職業訓練についての具体的なプログラムを考えたほうが良い、というわけだ。
自意識(自己管理の文化)の問題、その自意識が社会的に存在しているということ、といった話は、「空理空論」だ、というのだろうか。
「議論のための議論」など、しているつもりはない。僕が現役で仕事をできる時間はもう残り少ないと思っているし、どう転んでも「命懸け」だと思っているので、それに見合うこと、「本当に必要なこと」しか考えたくない。
ただこの件については、僕が自意識レベルでエクスキューズを重ねても意味はない。「僕は違うんだ!」と叫んでも、提出できる具体案が空疎なら、「ほら、やっぱり」でしかない。


「自分は投げ捨てられている(孤立している)、自分を支えることができない」という痛切な感覚にとって、本当に必要なことは何か。社会で暮らすにあたって、あまりにも脆弱な立場に追いやられてしまった存在に、何が可能か。「本質的な無能力」から抜け出すのに、どんな訓練プログラムを用意すべきか。――そうしたところで、具体的な処方箋が必要だ。


そういうわけで、先日の「単独性」についての議論以来、ちらちらと触れていた「天皇制」の問題を、「ひきこもり支援」に内在的かつ必要な話として真剣に扱うべきか否か、頭を悩ませている。
社会に入っていけず「不気味なもの」(フロイト)となってしまった存在が、「天皇陛下」というマジックワード(およびそれに関連する諸効果)において、社会に復帰できるか否か。
この辺の議論は、粗暴にやろうと思えばいくらでもやれる。ただ、テーマ設定としてヴィヴィッドかつ具体的なので、「議論する価値はあるか」について勉強し論じるだけでも、何がしかの成果は期待できると思う。


僕自身は、不登校になった中学生の頃から、「天皇制」に強い反発と嫌悪を感じてきた。不登校や引きこもりを社会的に支援してくださっているのは基本的に左寄りの方々だし、保守・右翼は引きこもりバッシングを続けている。その文脈で、「引きこもり支援のために、天皇制について論じる必要はあるか」という問題設定を持ち出すのは、トチ狂ったとしか思われないかも。いや、実際にトチ狂っているのかもしれない。それならそれで、はっきりさせたい。


ひとまず、宮台真司氏の議論を勉強する努力をします。停滞や中断を繰り返しながら、少しずつでも考えていきたいと思います。
「馬鹿かお前は」というツッコミも含め、いろんなかたのご意見をお待ち致します。