単純な話、ひきこもり経験者の中では社会との接点がたくさんあるとされる僕でさえ、事実上ほとんど絶望している。
僕はこのブログ活動にたくさんのエネルギーと時間を割いてきたし、それなりに評価いただける成果も作れたかもしれない。でも、それはお金を生み出す活動ではないし、僕は何より経済的に絶望し怯えている。
僕は自分の情熱とエネルギーを経済問題の解決に向けて注ぎ込まねばならないのだが、そこで完全に行き詰まっている。


2ちゃんねるヒキ板で、「ひきこもり支援をやる連中は、当事者に寄生して生きている」という書き込み(おそらく当事者)を見たことがあるが、「支援活動など必要ない」と言っているに等しい。支援が事業として必要であるならば、≪経営≫の問題は重要、きわめて重要だ。「当事者からお金を取ってはダメ、ボランティアでやれ」というのでは、責任のある「仕事」の話として語れないのではないか。(「支援内容を洗練・検討すべき」はあっても、「支援は必要ない」とは別の話。)


既存のひきこもり支援事業の不備はよく語られるし、僕も様々な新機軸の議論を模索したつもりだが、「支援スタッフがどれほどつらい状況に置かれるか」については、ほとんど語られない。
見聞した具体的な団体名を記すことは控えるし、僕はひきこもりの相談業務はごくわずかの事例しか経験がないが、とにかくひきこもりの支援は、現状ではとてつもない激務になっている。 → まったく現場事情を知らないかたは想像しにくいと思うが、良心的で情熱的なスタッフが次々と「燃え尽き」でリタイアしたり(そういう場合、「もう引きこもりの≪ひ≫の字も聞きたくない」というぐらい激しい拒絶感情を持ちやすいらしいが、わかる…)、僕の身近でも、たった1件の相談を引き受けた人が2週間でギブアップした。ある団体の代表は、40代で亡くなってしまった。
≪ひきこもり≫というテーマが、当事者ばかりでなく支援者の心身をもこれほど蝕んでしまう、その「きつさ」について、一回ちゃんと考えるべきではないか