個人的訓練・環境整備・解釈変更

引きこもりというのは、深刻度を増せば増すほど苦痛が激しくなり、その脱出の極度の困難さから(そして「脱出後」にも、就労およびその継続は極度に困難であることから)、ほうっておけば「死に至る」状態です。「ひきこもっている状態そのものが悪である」わけではありませんから、そういう意味では責められてはなりませんが、「苦痛をともなう状態のまま放置していい」というわけではない。道徳的には状態像を受容しつつ、苦痛緩和のためには具体的に社会との接点を模索せねばならないし、「訓練」のプログラムを設定しなければならない。――そういうアクロバティックな援助姿勢が必要になります。
当事者*1を社会から守りつつ、かつ当事者を社会に接続せねばならない…。安易な「洗脳」や「順応強要」であってはなりませんが、なんらかの「訓練」やそのための環境整備は不可欠です。


難しいのは、その際の「訓練」が、ただ当事者本人の閉じた個人的トレーニングの問題では済まないのではないか、ということ。つまり、「修行系トレーニング」は、既存社会の制度上の問題等々を温存し、問題の一切を「お前が強くなれ」に還元してしまう。――そういう問題ではないはずです。


僕が「天皇」を持ち出したのは、「修行系の提言」ではないし、かといって単に「環境を変える」でもない。いわば「私たちの解釈を変えることで、既存の制度を(引きこもりの苦痛緩和のために)活用できないか」という発想です。


先日の分類で言うと、(3)に見える態度をとりながら*2、そこで期待されている実際の目論みは(1)に限定される、というような。 【そこには、北田暁大氏が暫定的にアップされている「言語行為論」が深く関係しているように思うのですが、これはまたじっくり考えたいです。】



*1:厳密には「現役の当事者」と「経験者」に分けねばなりませんが、面倒なので以下では「当事者」と書きます(私は「経験者」です)。

*2:天皇陛下万歳!」など