「空疎な抽象論」か、「理論なき(恣意的な)個別対応」か
僕が個別対応的なカウンセリング業務に困難を感じ、思想・制度の問題を考える必要を痛感したのには、いくつかの理由があります。 以下に列記してみます。
ただし、これは「個別対応の価値を認めない」ということではなく(そんなことできるわけありません)、「現状では個別対応の価値ばかりが喧伝されているが、理論的に考える努力にも意味はあるのではないか?」という提言です。
- 相談業務をしていると、一人一人の依頼者が、「特殊性」(「依頼者として」)ではなく、「単独性」(「個人的な友人として」)の対応を要求してくる。 → 「誰が友人になれて、誰がなれないのか」の承認闘争が発生し、耐えられない状況になる。
- 「斎藤環は冷たい」と言われるのもこれでしょう。 斎藤氏は「医師」であり、面接室には「患者−医師」関係しかないし、それしか許されない*1。
- 逆に言うと、在野の支援者は、「支援対象との人間関係(の線引き)をどうするか」に、つねに悩まされる。 「スタッフとして付き合っている」のか、「個人的に親身な友人」なのか。 → 支援者も(趣味趣向を持った)一人の人間であり、「相談を受けたすべての人を個人的な友人にする」ことなど不可能。 → 「スタッフとして付き合っている」にもかかわらず「単独的に対応している」は、あり得るか。
- というより、「単独的対応」は、やはり必要なのか。 「単独性」については、当事者同士、あるいはまた別の「出会い」に託すしかないのではないか。
- ――といった議論そのものが、「理論的検討」である。
- 支援活動における、「ミッションの確定と線引き」という論点に即し、支援技法を洗練する必要がある。
- この「線引き問題」は、関係者にしか理解しにくいのかもしれないが、支援者を守るためにも、当事者(消費者)を守るためにも、必須の論点*2。 → 支援者が「引き受けすぎない」よう、消費者が「ぼったくられない」よう、契約時にはっきりさせる必要がある。
- その際、上記のような「単独性/特殊性」という理論的理解はとても重要。
- 「ミッションの設定」は、「ひきこもりに対する理論的理解」が行なうはず。 「理論など要らない」は、それ自体が一定の「ひきこもり理解」の理論的帰結であり、思想的立場の表明。 あるいは、自分の恣意的立場を絶対化しているにすぎない。
- 「ゴチャゴチャ考えてないで、やれ」が有効な局面は、たしかにある*3。 しかし、何度も触れているように、努力課題のすべてを「個人レベルの修行」に置くことは、「課題のすべてを当事者個人に還元する」ことになる。
- 個人的に考えて、「言葉に関する貧困さ」が、あまりにも大きな苦痛と悲劇を生んでいるように思われてならない。
僕は、業界関係者(当事者・支援者など)にとっては「哲学ヲタの馬鹿」であり、アカデミシャンにとっては「理論と教養のない馬鹿」になる。 現場には理論家の成果が届かず、理論家には現場の葛藤が伝わらない。 → 「現場の苦痛に即した理論」こそが、必要だと思うのですが…。
*1:精神科医が患者と「プライベートな友人・恋人関係」になることはご法度のはずです。 斎藤環氏は公的に僕をご紹介いただくとき、「友人の上山さんです」とおっしゃるのですが、これは僕のためではなく、斎藤氏ご自身のケジメのためだと思います。 僕は斎藤環氏の患者になったことは一度もなく、「患者 → 友人」という展開では一切ありません。 【蛇足ながら、当ブログで僕が展開している議論を斎藤氏がどう思われているか、僕はまったく知りません。】
*2:逆に言えば、この点をぼやかす支援者は、信用してはならない。
*3:特にひきこもりの場合、「防衛反応として(逃避的に)抽象思考に没頭する」という要因は無視できないし、短期的成果のためには「とにかくヤル」は必要。
*4:「思想とはなんだろうか」と思ってしまった。とりあえず「何が正しいか」についての立場、としておきますが、僕が「必要だ」と言っている「思想」とは、どのようなものでしょうか。
*5:拙著 p.188
*6:「ひきこもりについて論じている」光景は、いつも「陳腐なロールプレイ」にしか見えません。 肯定派も否定派も、既視感のあるパターン化された言説を繰り返すだけ。