≪純潔主義≫ → 「安楽死」か「絶望の措定」か

 がんばれば報われるというふうに素朴に思う学生さんはどんどん減っていて、「実際にはそういうふうになっていないじゃないか」ということを言います。 利いた風な口を叩いているけれども、こういうニヒリストぶりっここそが「純潔主義」に見えるんです。*1



よく言われることですが、「何をやってもどうにもならない」は、「どうにもならない」と認識している自分自身は、純潔に温存することができます。 「どうにかなるかも」と現世的な努力をはじめた瞬間に、自意識が不純にけがされる。


と言っても、ひきこもり当事者(経験者)が「どうにもならない」と言ってしまうのは、「それほどまでに絶望が深い」ということだし、「その絶望の断言自身が防衛反応である」と言うこともできます。 「まだ希望があるかもしれない」と言ってしまったら、あの危険と傷つきに満ちた時間が始まってしまうのですから。


恋愛についてもそう。 「自分にだって、希望はあるかもしれない」と言うことが、どれほど苦しいか。 「自分にだってあり得た」のだとしたら、「何もなかった30年間」は、どう理解したらよいのか。「頑張れば何とかなった」のか。 → 「努力しても自分にはムリだし、そもそも自分には必要ない。このまま死ぬしかない」と受け止めれば、楽になれる。 自意識安楽死


「希望がある」という感覚が「不純」で、それゆえに引きこもり当事者(経験者)には耐え難い(なじみにくい)ものだとしたら、斎藤環氏の言う「ひきこもりはオタクになればいい」というのは、かなり無理のあるスローガンになる。 現世的で(不純な)希望(快楽)には、喪われた(苦痛に満ちた)あの時間*2を補填するほどの実りはない。 傷つき、完全に絶望した当事者のメンタリティに見合うのは、「完璧なる純潔主義」だけなのではないか。 → その純潔主義を、「ニヒリズム」から、「社会的に措定された絶望」に向かわせることはできないか。


上で触れた、「閣議決定後の形式的承認としての≪陛下のご意思≫」が、そのようなものであり得ないだろうか、というのが僕の論点でした*3。 → それは「天皇陛下万歳」を叫べばいいという話ではなく、「閣議決定」が大前提なのですから、憲法や法律について勉強するとか、実際の政治活動が必要になるとか、そういった話になってしまうわけですが。


完全に絶望した当事者(経験者)を動機づけるほどの何かが示せないなら、やはりニヒリズムに徹し、「自意識の安楽死」に身を任せるしかないのだと思います。 あるいは文字通り、「ひきこもり当事者の安楽死を認める法案」を検討し、ロビー活動すべきでしょうか。 「私たち引きこもりには生き残る希望が一切ないのだから、せめて安楽死させてくれ」と。
僕は冗談で言っているつもりはありません。 「どうしたら楽に死ねるか」は、ひきこもり当事者の最大関心事の1つのはずです。


絶望のピュアリティに見合うほどの現世的事業はあり得るか。
「ひきこもり」は、「オタク」に似ているように見えて、実はまったく違う。
「ひきこもりに精神主義を押し付けてはいけない」と言いますが(それは本当です)、それは「ひきこもりは精神主義を嫌うから」というよりも、「(いい加減な説教では)精神主義の度合いが低すぎるから」ではないか。 ひきこもりを動機づけるには、「もっとよりピュアな精神主義」である必要があるのではないか。 「命懸けのひきこもり」に見合うだけのピュアリティ。
ひきこもり当事者こそが、もっとも極端かつ先鋭的な精神主義者であり、それは「完全な絶望」ゆえのなれの果ての姿。 あまりに傷ついているので、そのようなピュアリティによってしか自分を保てないのではないか。


社会復帰のための「有効な訓練」があり得るとしたら、それは「精神主義の解体」か、逆に「極端に純度の高い精神主義のインストール」以外にないのではないか。 これほど深く傷ついてしまった人たちには、もはや「適度の精神主義」は不可能なのではないか。





*1:憲法対論』p.17、宮台氏の発言。 太字強調は引用者。 あと、「実際には〜ないか」を、引用者がカッコに入れました。

*2:引きこもっていた時間

*3:これは「否定神学」で、だからいけない、と言うべきなんでしょうか。