死に至るシニシズム → 内ゲバ

 自分たちが議論する言葉がなかったり素養がないということについて、忸怩たる思いを抱く学生さんが増えているのも事実で、だからこそ僕のゼミが盛況になる。 しかし逆に、どうせ考えても分からないから、忘却の淵に沈もうというような学生さんも増えていて、先鋭に二極分解しつつある印象があります。*1

これ、そのまま「ひきこもり」業界、とくに当事者・経験者の生態についても言えないでしょうか。
2ちゃんねるの、「ヒッキー」板のスレを、どれでもいいから覗いてみて下さい。 もちろん「2ちゃんねる」全般がそうなのでしょうけど、「このままほっといたら死ぬしかないけど、考えたってどうにもならない」というシニシズムがひどい。 それが、「上山は文化人気取りのバカ」という罵倒にもつながっている気がします。
シニシズム」というとふつう、「体制に順応している人」の冷めた順応主義をいうと思いますが、ひきこもりの場合、「不可抗力の完全な脱落者」として、シニシズムに陥っている。 まさに「死に至るシニシズム」です。


こういうタイプの人が困るのは、「何を言ってもどうにもならない」と思っているがゆえに、ひきこもりの立場を悪くするような言動も平気でとるということ。 何を言っても「プラス方面にはどうにもならない」んだから、無責任でトチ狂った発言をしても、「マイナス方面にも大丈夫だろう」と。


僕に向かって「何を言ってもどうにもならないんだから、お前は黙ってろ」と言う人は、その自分の発言のパフォーマティヴな効果は信じている*2わけだし、自分の「どうにもならない」という信念については、絶対的だと思っている。 → 「ひきこもりはどうにもならない」という当事者の信念には、ほとんど宗教的なものさえ感じます。 「ほとんど宗教的なまでに絶対化された絶望、というような。
ほんのちょっとでも「希望はあるかも」と口にした瞬間、「おめでてえな」と言われ、ウサ晴らしの対象になる。 → ひきこもり当事者(経験者)同士の内ゲバ


「努力を続けていれば、何かあるかもしれない」というのも「信仰」でしょうが、同じ信仰なら、ベタな努力を尊重するスタイルを採りたい。(そのスタイルをとれないほどに絶望しているのが当事者なわけですが。)





*1:憲法対論』p.16、宮台氏の発言。 赤字強調は引用者。

*2:「上山を傷つけて楽しみたい」のでしょう。