≪陛下の御意≫の地位 (「本物」か「形式的承認」か)

226事件においては、天皇陛下への最高の忠誠を誓った人たち(皇道派)が、陛下ご自身によって「逆賊」とされ、処刑された*1。 「これこそが陛下のご意思のはずだ」という皇道派の思い込みが、陛下ご自身によって否定された*2
同じことを、現代の右翼について言えるだろうか。 つまり、「右翼の言動は、(平和主義的な)今上陛下のご意思に反する」と、素朴に言えるだろうか。


僕がここで思い出すのが、ジジェクが(ヘーゲルを参照しつつ)言っていた、「≪我欲す≫の形式的承認」の話。
つまり、陛下が儀式の中で「わたしは○○を望みます」とおっしゃった場合、それは「陛下ご自身の意思」ではなく、閣議決定に対して(象徴的な特異点にいる者として)「形式的承認」を与えているに過ぎないのだ、という話。 もし仮に閣議決定の内容が陛下ご自身の個人的意思に反するとしても、「天皇陛下」というご公務にあるお立場としては、「私は望みます」と言わなければならない。
「誰が陛下の≪本物のご意思≫を代弁しているか」*3としてしまうと、陛下を巡る承認闘争になってしまう(「天皇陛下がこうおっしゃっていた」が、誰にも逆らえない最終審級になる)。


僕が「ひきこもり経験者」および「支援を考える者」として、「天皇」という話を持ち出してきた最も核心的な着眼点がここにあります。 つまり、「弱者の行なう正義の主張」であっても、それが(「我欲す」の形式的承認を経て)「陛下のご意思」として主張できるのであれば、社会的に無視することはできないのではないか。
たとえば「ひきこもりは非国民だ」という罵倒に対して、「その発言は陛下のご意思に反する。 よってあなたこそが逆賊だ」と言えるのではないか。


今上陛下ご自身は、おそらく本当に「非国民」などという野蛮な罵倒を嫌われそうにも思いますが、そうした「個人的ご意思への国民の詮索」とはぜんぜん無関係に、「陛下のご意思」を形式的に問題にできるところが、「象徴天皇制」のミソだ、というのが、ジジェクの主張だったと思います。


たとえば「日の丸の強制は≪陛下のご意思≫に反する」と、言えるのかどうか(国旗国家法が閣議で通ってしまった以上、「日の丸の強制は陛下のご意思」なわけですが)。 「日の丸」が、「無条件的忠誠」を誓わせるものではなく、「閣議決定への形式的承認」のマークでしかないなら、「強制」ではなく、「法的正当性」の問題になると思うのですが…。





*1:という理解がいちおう共有されている

*2:三島由紀夫は『英霊の声』の中で、「あれは≪人間天皇≫の発言であって、≪本物の天皇≫のご意思ではない」という意味のことを言っていなかったでしょうか。 「などてすめらぎはひととなりたまひし」を、僕はそのように理解したのですが。

*3:在野でも、権威者の周囲にはつねにある風景だと思います。 そこには「○○先生が、権威主義はいけないって言ってたぞ! 逆らう気か!」という喜劇さえ…。