「神武革命論」は、形式的禁止の提案に見える

千坂恭二氏のツイートに、「神武革命論」とあった(参照)。
そこで問われているのが、社会における《形式的禁止》であるように思われ、さかのぼって昨年9月からの氏のツイート(おそらく2500個あまり)を通読した。以下に引用するのは、その一部。




私が必要とした形式的禁止は、象徴天皇制と関係がある



集団や個人は、つねに正当化の熱狂に陥る。つまり、

    • 自分の正当化を「100%正しい」と思い込んだり、
    • 「さらにもっと、決定的で真実の正当化があるはず」と思い込んで、際限なく《さらに真実の、さらに必然的な》正当化を求め、収拾がつかなくなる。

これは、正当化の努力それ自体における依存症といえる。*1


完全な正当化はいかなる瞬間にも不可能である以上、
必要なのは、「本当に真実の、必然的な正当化」をもういちど考えたり、それを僭称したりすることではなくて――いまの正当化が限界つきであることを前提に、マネジメントを続けることだ。


嚆矢としては、ジジェクが1992年に指摘している:

 王の役割についてのヘーゲルの問題構成をいま解釈しなおしているところなのですが、その発想というのは、民主主義の保障として必要なのは、空虚な点であって、権力をもたず、純粋な象徴的権威であるような君主であるというものです。おそらくこれは日本において機能しているものでしょう。(ジジェクの発言より、『批評空間 (第1期第6号) 共同インタヴュースターリンからラカンへ』p.25、強調は引用者)*2

これを読んだときは、
ジジェク天皇制を肯定するのか」と驚いたのだったが。


私がたどりついた《形式的禁止》は、ジジェクイデオロギー論をきっかけにしていた。正当化が陥る、集団的な虚偽の熱狂。そこで、「ほんとうの正当化」を探すと、その探求作業そのものが固着してしまう――個人の依存症と、集団における正当化(陶酔に満ちた享楽)は、通底する。そして、個人が自分を「どうやって正当化するか」は、集団の正当化のありようと、無縁ではありえない。


これまでは、そのたびごとの今上天皇を無時間的に考えることしかできていなかったのだが、千坂氏の神武革命論は、新しいヒントをもたらした。



今上天皇言葉大御心(おおみごころ、陛下のお考え)は、それ自体としては無視される。今上天皇への忠誠でしかない天皇陛下万歳」は、禁止される(参照。そのつどの陛下はあくまで存在として、神武天皇の機能を継承・体現する。


初代・神武天皇は、既存体制(大和)に対しては革命であり、しかも天孫降臨神話において、コミュニティ内部からは「素性不明」と位置づけられる(参照)。ここには、制度内部的に合理化の不能な、徹底的な外部性がある。これのみが、いっさいを私物化するグローバリゼーションに対し、外部性として屹立する(参照)―― 千坂氏は大意、このように説く。

    • 神武天皇の存在が、歴史的事実よりも神話的「位置づけ」で重視される
    • その機能は、意味づけ不能の外部性にある

――これは私が、《形式的禁止》に求めたことに重なる。



現時点で感じる疑問は二つ。

  • 神武天皇は、《意味づけ不能》それ自体の措定として、革命であり、維新である。しかし、その神武への「忠誠を誓え」だけでは、既存社会への外部性は保てても、自己検証が生じにくい。
    • これは私なりに言えば、形式的禁止と動詞的当事化の関係の難しさにあたる。形式的禁止は、分析的な当事化を保証しない。
  • 形式的禁止の機能は、日本の文脈では「天皇」と呼ばれるが*3、同様の機能を果たす存在は、どういう国や場所にも必要なはず。
    • 千坂恭二氏は、神武革命の消息を「日本にしかない」とおっしゃるのだが参照1】【参照2、機能的に等価な存在は、世界中のあらゆる場所に必要なのでは。*4




*1:(1)「これでいい」という思い込みと、(2)「これではダメだ」の探求努力の固着――この二つの場合に分かれる。

*2:「共同インタビュー スラヴォイ・ジジェク氏に聞く:スターリンからラカンヘ」(聞き手:柄谷行人岩井克人浅田彰田崎英明・訳)

*3:第二次大戦の敗戦とアメリカ(という外部)がなければ、象徴天皇制と呼ばれるあり方は(少なくともあのタイミングでは)なかっただろう。▼私は、「日本に内発的革命はない」と言った三島由紀夫を思い出していた。cf.『三島由紀夫 最後の言葉 [新潮CD] (新潮CD 講演)

*4:→《神武創業による建国は、民族国家ではなく、民族の外の国家(神武帝は、外部からの来訪者の子孫ですから)であり、世界国家です。その生起の場が地理的に日本だったにすぎないと考える必要があると思います。》(2013-12-18