「自己決定」: 陛下と国民

憲法対論』、精読したのは第1章までなのですが、斜め読みで全体を見渡したとき、次のような一節が。(強調は引用者)

 ほとんど憲法学者が問題にしているように感じられない、僕一人というつもりはないけど、でも僕が非常に強調して考えていることの一つの問題があるのです。 もし天皇制問題で違憲問題が今の日本国憲法の中にあるとすれば、皇室典範の第一条(女帝の排除)ではなく、天皇、皇太子、皇太孫には退位の自由がないということです。 これは決定的に憲法違反だと僕は思う。*1



天皇陛下は≪国民≫か」という論点に関わると思うのですが、次のようなことでしょうか。
国民は、陛下にそのお立場を無条件に押し付け、それを「陛下の自己決定」にすり替えている。 現在の陛下はさいわい「ご自分の意思で(そのお立場を)選択した」のだとしても、それは偶然的なものであって、「選択しない権利」自体がないのはおかしいではないか、と。 → ここには、「国民が日の丸を拒絶できない」のと同型の論理がないか。


僕が雅子妃に注目したのもこの辺のことです。 ご成婚前の報道を見ていた方は覚えておられると思いますが、独身時代の雅子さんは、どちらかというとあまり笑わない、決然とした印象の方だった。 → ご成婚と同時に、「作り笑い」と言いたくなるような笑顔だけになった。
あれは「ご本人の自発的笑い」なのか、それとも「強制された笑い」なのか。 国民が日の丸を振って「雅子さまー」と呼びかけるとき、それは「あなたは(日の丸を振る国民に)笑ってくれる人ですよね?」という強制になっていないか。
皇太子のご発言によれば、雅子妃は「皇室になじむ」ご尽力をされたそうで、だから挫折しても、「皇室に嫁いだのは自己責任」などとは言われないと思います。 しかし、逆に言えば「雅子妃が感じているプレッシャー」は問題にしなくてもいいのか。 そこには、国民一人一人が感じているプレッシャーの雛型がないか。 そのプレッシャーに、国民一人一人が加担しているのではないか。(つまり、国民一人一人のあり方が、国民自身への理不尽なプレッシャーを形作っていないか。)


「日本国民として自己決定せよ、さもなくば非国民だ」という矛盾した論理(脅迫)は、いまなお日本国内において現役ではないでしょうか。
繰り返しになりますが、「ひきこもりへの説教」には、これと同型の枠組みを感じます。





*1:p.219。 憲法学者、奥平康弘氏の発言。