引きこもりをめぐって考えるのに、どういう議論の枠組みが必要か、ということを考えてみているわけですが、今日あらためて、「愛情生活」という枠組みを実験的に使えないだろうか、と思い至りました。
僕がここで主張することには独創性など期待するべくもなく、というか「独創性」が必要であるとしたらそれも「苦痛緩和」のための道筋にすぎないわけで、逆に言えば「愛情生活」という枠組みが陳腐であっても、苦痛緩和に役立ってくれれば、それで充分。
エクスキューズを重ねても意味はないので、今日考えたことをいくつか箇条書きにしてみます。
- 「現象経験の極限」、その最上最善は、≪愛≫あるいは愛情生活と呼ばれる何かではないか。
- 理論的な探求が僕らにもたらすもの。労働の成果。
- 「現実を変える」と言っても、目指されているのは「愛情」に関わる何かではないか。
- 「現実逃避」というのも、愛情生活との関係で考えたい。
- 「愛」について語り出すと、途端にその人の思想のカッコ悪さとか、ダダ漏れになる。
- 「本物の愛」とか、ロマンティックにはしゃぐとか。 → 思想の本性が出てしまわないでしょうか。
- 愛情生活に関する立場の選択は、思いのほか政治的ではないでしょうか。
- 「働きながら暮らしていく」ときの自己管理とは、やはり「愛情生活」の問題ではないのか。
- 自分の内面生活、プライベートの愛情関係、職場の人間関係*1。
- 「とにかく働かなければ」という無条件のテーマ設定は、社会的な問題意識も、投げやりな内面生活も、置いてきぼりにしている。
- 「再配分と承認」という社会学的(?)な問題設定も、マクロレベルでの「誰が愛されて誰が排除されるか」という話。
- 少々こじつけめくけど、そう考えれば、身近に引き寄せて考えやすいのではないか。「話題に興味を持ってもらえる」というのは大事だと思っているので*2。
- 愛についても、むしろ機能的な、工学的な発想が必要ということかな、逆に言えば。
- 引きこもりの内面生活にとって、「愛」の話は「ロマンティック」というよりは苦痛に満ちたもの。
- 自己愛、親への愛憎*3、これまでの悲惨な人間関係。
- 「性愛関係から完全に排除されている」という苦痛に満ちた意識。
- 致命的であるのに抑圧された感情生活。
- 支援活動にとっては、「特殊的受容」から「単独的受容」*4への変化が大きなテーマとなるはず。
- 新しい出会いにおいて、「当事者同士であるか否か」よりも、こちらの方が重要な問題。
- 「支援者と被支援者の線引き」の問題*5も、この辺の話ではないか。
- 宮台真司氏は「愛国心」と言うのだが、これまでの彼の発言からして、「本当は愛していないのに(あえて)愛しているフリをする」というわけか。
- 「国への愛」という言い方は、どの程度信用できるレトリックなんだろう。
- 性愛関係や経済生活から完全に排除された当事者が、「愛国」を叫ぶことで一気に内部化され得る、か?
- 「愛は自然現象か」*6という、長年の問い。
- 文化的・社会的な努力と、ケミカルな処理(向精神薬など)と。 → 「愛とは何か」というよりも、「具体的に愛し愛されるようになるための具体的処方箋」が欲しい。 【個人(ミクロ)レベルで、そして社会(マクロ)レベルで】
- 「僕らの人生の残りの時間が(広い意味での)愛情生活である」として、その時間に少しでも改善を試みる。
- 「地獄とはなにか? それは、もはや愛することができない、という苦しみである。」*7
*1:愛の話も、システム論的にすべきなんでしょうか。
*2:「上山は不必要に難しい話ばっかしてる」といつも関係者から言われるのです。僕は「必要だ」と思うからしているのに。
*3:この問題は大きい。
*4:「特殊性と単独性」については、こちらを参照。「単独性」が愛の話である、というのは、柄谷行人さんご本人をはじめ、たくさんの方が論じているようです。
*5:これは、在野の関係者にとって悩ましい話だと思います。
*6:「言語は自然現象か」「貨幣経済は自然現象として解析できるか」といった問いと連動しているでしょうか。あるいは、社会を「自然」の一環として見るのか(「ホッブズ的秩序問題」?)とか。
*8:拒食症は、「愛される自分が性愛化することへの拒絶」と捉えればいいのだろうか。いや、もっと広く、「愛されようとすること」におけるトラブルか。