マイノリティと「苦痛の枠組み」

ひきこもりの話は、ほとんど理解されない。 その問題に経験者として取り組もうとする苦しさはさらに理解されないが、他のどんなジャンルや労働についても、同様の「理解されない」事情があるはず。 そもそも苦痛は、数値化されない「主観的訴え」でしかない。
激しい苦痛があっても、それがあまりに稀な経験で、司法関係者の共感力に訴えることもできないなら*1、公正さにのっとって法的な権限を主張することも難しい。 「その程度の苦しみなら我慢するのが当然」云々。
苦痛は、一つ一つ具体的な質を持っているが、それが社会的に処理されるときには、普遍的に受容される「苦痛の枠組み」を必要とする。 その枠組みには、ものすごい時代的制約と価値的バイアスがある。 そこに抵抗するのは、はっきり政治的な努力だ。






*1:その共感力自体が一定の価値的バイアスを持っている。