逸脱と制度化

 ここには、次の二つのことが示されている。 第一に創造とは、先行する規範を逸脱することによって行われる。 「正しいこと」が自動的に強制されるような社会では、新しい創造が――アーキテクチャの創造者の予期しないかたちで――なされることはあり得ない。 だがもちろん、同じように規則を踏み外しても、狂気や誤りと位置付けられる場合だってあるだろう(行き過ぎた創造)。 逸脱が新たな創造と認められるためには、その逸脱が社会によって承認され、反復されることによって制度化され、新たな規範になる必要があるというのが、第二のポイントである。 規範の逸脱と制度化というこの問題がより明確に現れるのは、言語の使用という局面だろう。 大屋雄裕自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)』p.172)



人間の意識とはそもそも逸脱として成立する*1、という視点が欠けている。 逸脱をもとに再構成のプロセスを論じないと、逸脱を忌避することとしての「再帰性の苦痛に取り組めない。(単なる順応主義者には、ひきこもりを論じることができない。)
いきなり社会制度や規範との関係で逸脱を論じる姿勢と、臨床プロセスとして逸脱を論じる違いがここにある。



*1:ドゥルーズが「それ自身における差異」と論じているものを、私はそのように理解している。私はその差異をねじ伏せて社会参加しようとしすぎたことで社会参加できなくなった、という理解でいる。この「差異をねじ伏せる」という心の動きは身体化していて、なかなか改善できない。