当事者論と時間の関係

自己の論点化をできない人は、想像的なものだけを救済しようとする*1。 嘘をついて、「相手が自分をどう思っているか」を訂正することで手を打とうとする。 自分が何をやってしまったか、どんな心的態勢でいるか*2については反省・分析しない。 対人関係の努力が、最初から最後まで想像的なものの圏域にしかない。 それは、操作的に相手を利用し、自分を道具として利用させることで居場所を作ることにあたる。
当事者的論点化は、まずもって今現在の自分がどのように場所=関係として構成されているのか、を問題にしている。その時点で、親御さんや支援者の期待する「当事者発言」とは、ズレを生じている*3。 誰も彼もが、想像的自己確証、つまり商品的自己確証をしか生きていない*4。 しかし、単に本人を別格化する「当事者発言」ではなく、関係者の全員を当事者とする分析的な当事者化(論点化)にこそ、臨床的取り組みがある。


このことは、当事者化と時間の関係として論じられる。誰かが「かつて引きこもっていました」という当事者論は、過去を問題にしている(だから、「今のあいつは引きこもっていない」という話になる)*5。 しかし私が強調している当事者論は、「いま現在どのような関係性にあるのか」*6を問題にしている。 論点化は、当事者論の現在化にあたる。





*1:ごまかそうとする相手がそのごまかしをメタ的に理解していても、それでも暗黙で受け入れてもらえることを期待している。そのことの傲慢さはいっさい扱おうとしない。

*2:フロイト的に言えば、失錯を通じてこそ無意識的な欲望の構図が露わになる。

*3:「過去の体験をしゃべってください」とか、「なるだけ鮮度の高い、最近まで引きこもっていた人が良い」とか。

*4:「売れたか売れなかったか」を競うナルシシズムであり、他者との相対的差異をひたすら問題にする。相対的差異を競うことを絶対化する。ここでは事後的自己検証は、「売れなかった…」という反省会か、「売れた自分」への陶酔でしかない。

*5:自他を実体化する、徹底して想像界のロジック。

*6:それがプロセスとしてどのように再生産されるか