ひきこもりと摂食障害を比較しながらの研究会に参加。

  • 医療化の目線を採るならば、私のblogや著書は、その全体が「患者の症状」として陳列される可能性がある*1。 いや、そもそも「健常者」とは同列に見られていないかもしれない。
  • 「社会科学における社会学」の位置づけと、「精神医療界における心身医学」の位置づけが似ている、という岸政彦氏の指摘。 数学化・生物学化の流れに任せてしまってよいものかどうか。 ▼生物学的精神医学が覇権を握る中で、斎藤環氏が「精神分析」の立場を堅持していることの意味。 「理論的選択」と、「倫理的選択」の相関。
  • たとえば私が自分を「強迫性障害」と規定して考察を進めるのは、「ひきこもり」と自己規定して考察を進めるのとは別の枠組みや作業になる。 ▼私は強迫性障害についても考察の必要を感じるが、逸脱や苦痛の枠組みをどう設定(ネーミング)するかは、その後の考察を縛る。 非常に政治的。*2
  • 私が自分の症状を生きるべきであるなら、私の自己分析の枠組みは「ひきこもり」に縛られる必要はない。 私はむしろ自分の症状のこんぐらかりそのものに忠実になるべき。 ▼再帰的プロジェクトとしての自己(ギデンズ)を徹底操作*3すること。




*1:参照:『シュレーバー回想録』 ▼書籍:『シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)

*2:参照】(そのネーミングは誰に益するのか)

*3:「working through」