「汝の症状を生きよ」について

読書会チャットでは言及できなかったが、私が『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』(斎藤環)で最も鮮烈な印象を受けたのは次の箇所(p.171)。

 私は価値観という言葉を、ほとんど「症状」と同じような意味で用いざるを得なくなっている。

「価値観とは症状である」
こう考えると、たとえば稲村博があのような形で医療主義を進めたのも、彼なりの「症状」を生きたことになる。 それは稲村博を治すべきだ、というヒステリックな話ではなく、また「症状だから批判できない」ということでもなく。 ▼個人の選択や価値観を「心理学化」によって回収してしまう説明がある(ex.「フェミニズムを主張する人は思春期に問題がある」など)。 支配的な価値観が固定的に権威付けられ、そこから見下すように「心理学的診断」をくだす野蛮さ。 ▼生き抜かれるべき「症状としての価値観」は、心理学的診断に回収されるべきものではなく、むしろそのような権威主義的な「診断」を突き抜けて、みずからのドライブで突っ切るものである。 それが単なる唯我独尊や「ワガママ」ではなく、公共的な社会性を生きるものでもあり得ること。――しかしその指針がまだ理論化できていない*1。 ▼症状による個人の権威化と、分析主体*2的な「working through」、それが公共圏で生きられる「個人の社会的生」であること。

    • たとえば「リストカット」「摂食障害」「アルコール依存」など、症状が致死的な行動選択を伴いかねない場合、「汝の症候*3を生きよ」「症状による個人の権威化」の枠組みはどう理解できるか。 ▼ある個人の価値観(症状)が周囲に迷惑を及ぼす場合、そこに《交渉》という契機が必要になる。 社会には複数の症候主体が生きる。 関係は弁護の労働を要する
    • 症状を通じての個人の権威化が、公共的な理由によって必要かもしれない。




*1:参照】(精神分析的態度と公共哲学)

*2:「analysand」

*3:「症状」「症候」は、英語では同じ「symptom」。