診断カテゴリーへの依存

DSM-V研究行動計画

DSM-V研究行動計画



精神科医の使う診断マニュアル「DSM」は、次の「DSM-V」に向けて改訂が進んでいるそうですが(2012年公開予定)、その基本前提を確認できる箇所を、上記の本から引用してみます(以下、強調は全て引用者)。
なおこの本は、DSM-V開発を進める米国精神医学会(APA)と国立精神保健研究所(NIMH)の関わるものであり、直接の開発関係者が編者となっています

 DSM-III 診断体系が採用しているのはいわゆる新クレペリン診断法である。それは証明のない仮説的理論を軸として診断体系を構築することを避けて記述的アプローチを選んだことである。 (略) しかし、すでに(DSM-IIIの)出発点から、記述的方法の長所は主として臨床家と研究者内および両者間のコミュニケーションを向上させたところにあって、妥当性の確立ではないことが確認された。 (p.7

    • 集団的意思決定の「ツール」でしかなかったものが、いつの間にか「聖典」のような扱いを受けてしまう。


 これら症候群の同定と、それぞれの共通病因の発見の努力は今なお一向に実を結んでいない。各DSM症候群に特異的な生化学的マーカーは、候補こそ多数提案されているが、一つとして発見されていない。疫学的および臨床的研究が示すところでは、DSM障碍群間には高率に併発の存在することが証明されており、したがってDSM症候群がそれぞれ他と明確に区別される病因の表れであるとする仮説の基盤は危うい。それだけでなく、疫学的研究が証明してきたように、DSM障碍には短期診断(の持続性)さえ不安定なものが多い。治療に至っては特異性欠如がむしろ当たり前である。(p.8

 研究者たちがDSM-IVの奴隷になったような適用の仕方をしているために、精神障碍の病因研究が妨げられる恐れが生じている。なるほど、完全に記述され、完全に操作化され、世界的に受容された診断体系の価値を否定する者はいても少なかろう。それは、複数の研究間の診断的比較を推進し、診断の信頼性を向上させる。しかし、DSM-IV障碍が実体化されて疾病と同等と見なされる行き過ぎにまで至れば、それは研究結果の理解を促進するよりも阻害する確率のほうが高くなるであろう。
 以上述べた現行診断パラダイムの限界すべてが示唆する通り、もっぱらDSM症候群の洗練に集中した研究では、DSM症候群の基底をなす病因の解明など絶対に成功しないであろう。(pp.8-9

    • DSM-IV障碍の実体化」が、驚くほど強い口調で批判されています。


 新しい診断クライテリア*1をつくるためには、それらの多くの研究領域からもたらされる提言によって正しく重みづけをするアルゴリズム*2が将来の目標であるが、今のところは、われわれの手の届く距離にはない。 (p.12

    • だとすれば、「クライテリア」や「アルゴリズム」のなかに、それらとの付き合い方そのものが記されるべきです。


 後の討論では、将来のDSM改訂版を改善しようという目標と研究行動計画を定めるという目標とを切り離すべきこと、また、すべてのワークグループは短期的、および長期的視点の双方に立ってそれぞれの目標を検討しなければならないことが強調された。これは、たとえば、提言される研究行動計画はDSM-VI*3か、その後の改訂にならないと疾病分類にはなんら影響を及ぼすものではないことを考えておかなければならないということである。(p.11

    • 適切な判断ができる研究段階でないとはいえ、実務的な処理は続けざるを得ない。 実務上の割り切りと、長期展望をもった研究は別に考えるべきだ――ということで、とても説得的です。


 DSM-III 以後の体系に枚挙されている診断クライテリアは法律専門家ならびに保健行政官僚などが「これこそ精神障碍の本態についての全学界承認の智慧の結晶であって一字一句が金科玉条だ」と早呑み込みをして、これを無批判に用いるようになってしまった。(p.15

    • 多くの人がそういう行動を取ってしまうことを見越した設計が必要だと思います。
    • 私からの提案は、「診断クライテリア依存症」*4をカテゴリー化してはどうかということです。 医師・患者・研究者・マスコミや法律の関係者など、DSMを絶対視しがちな人に、釘をさしておくこと。 ▼本書でしつこく描かれているように、暫定的なツールでしかないはずの診断クライテリアの絶対視は、実際に手続きや関係性に問題を引き起こします。にもかかわらず、本人たちに自覚がない。(これは冗談で言っているのではありません。)*5


 DSM誤解の原因となりうる因子は、また、すべてとはいわずとも大多数の病的状態と症状の定義にもある。すなわち、それらは、正常の言動および認知過程の病的逸脱 pathological excess と定義されているが、この定義に恣意性がないわけではない。 この問題点のために、その結果、DSM体系は正常範囲の養育欠損(親との死別など)あるいは青年の反抗のような通常範囲の人間体験を病的としているという批判を招いた。(p.15

    • 恣意的でしかない線引きや診断基準を、「権威」とする人たち。
    • それは支配のツールであるとともに、患者側が自分を尊重させようとするツールでもある。


 そもそも、医学は、その最も基本的な用語である 疾患 disease および 疾病 illness の定義において合意に達したことがなかった。大多数の医師は今日に至るまで、これらの意味は自明であるといういわれのない思い込みで足りるとしていた。 国連の世界保健機構WHO)がその公的刊行物*6において必ず、疾患、疾病、障碍の定義を回避してきたのも偶然ではない。現行のICD-10の素っ気ない叙述を引用すれば、「本分類表において一貫して障碍 disorder という用語を用いることとするが、それは disease および illness という用語を使用すれば必ず起こる、さらに大きな問題を避けるためであるdisorder はもちろん正確な用語ではないが、本書における語の用法は、臨床的に認知しうる症状あるいは言動の一組であって、おおむね distress(主観的苦痛)を伴い、かつ personal functions(個人の機能)に干渉するものが存在していることを含意するものとする」ということである。(pp.16-17

    • ものすごく慎重な言葉遣いになっています。


 これに対して、先行のDSM-III、DSM-Rも現行のDSM-IV-TRも、精神障碍 mental disorder という用語の詳細な定義を提出している。この定義はかなりの長文(146語)であって、また多くの副文章や限定、留保の類を含んでいるけれども、これでもなお、何が精神障碍で何が精神障碍でないかを画定するクライテリアとして使えるような完成度に達しておらず、実際、一度もその目的で使われたためしがない。この定義には「いかなる逸脱行動もしくは一次的に個人と社会との衝突も当の逸脱あるいは衝突が当該個人における機能不全の症状でなければ精神障碍ではない」という明確な一文を含むけれども、遺憾ながら定義内には中核的な用語である「機能不全 dysfunction」の定義も、解説さえも見当たらず、ただ、機能不全は「行動科学的、心理学的、あるいは生物学的」でありうると語っているだけである。(p.17

    • 「何が精神障碍で、何が精神障碍でないか」自体がはっきりしていない・・・


 困難が数多くあるのは承知しているが、DSM-Vには、全力を尽くして、精神障碍に分類するべきか外すべきかの査定クライテリアに使える定義「精神障碍」をぜひ入れていただきたい。そうすることが重要なのは、あらゆる問題行動と問題的人間関係を身体医学化する過程が進行しているのではないかという公衆の憂慮が時とともに増大しているからである。個々の対象にした人間すべてを一切の曖昧さを残さずに判定するクライテリアとなりうる精神障碍の明文化した定義など不可能なことであるが、かりに証明されたとしても、なお最低限、具体的な対象者が診断学的に精神障碍に入るか入らないかという根拠が曖昧であってはならない。DSM-IVの作成に当たった特別委員会は、いわゆる精神の疾病すなわち精神障碍と身体の疾病すなわち身体障碍との間には基本的な相違はないという仮定を置き――いや断定したというべきか――、また、両者の相違なるものは単なるデカルト心身二元論の残りかすであるとした。 (pp.17-18)

    • 「精神障碍の身体医学化」に問題が多いことを認めています。
    • DSM-IVを作成した委員会は、いわゆる「心身問題」を(研究課題のレベルですら)無視したらしい。


 もちろん、「機能不全」を進化にも生物学的不利にも関連させないで定義するのは原理的にはまったく問題ないが、ただ、困るのは、知覚、抽象的思考、記憶などの基本的心理機能の基盤である脳の機構に関する知見がきわめてわずかなことであって、たいていは「生物学的機能不全が存在するであろう」と推定するのがせいぜいである。 (p.21

    • 先天的な脳髄の問題とされる発達障碍については、「不登校の67%が高機能広汎性発達障害」という調査結果もあるそうですが(参照)、では脳髄のどこに問題があるのかというと、それは明らかになっていません。 恣意的で暫定的なカテゴリーを「自然化」し、それを指摘する身振りを権威づけようとするふるまいには、じゅうぶん注意すべきです。
    • 他のカテゴリーもそうですが、ぜんぜんよくわかっていない話なのに、「〜〜性○○障碍」といったカテゴリーで、“解説書” が書かれたりしています。


念のため

私はこうした問題意識を持っていますが、そのことによって、一部関係者から陰湿な悪意も向けられています。いま精神科にかかっておられる方は、『DSM-V』をクリニック等で話題にすることには、慎重になってください。担当医師のプライドに抵触しないかどうかをゆっくり確認し、無理そうなら、「この人には向精神薬しか期待できない」と割り切るか、あるいは思い切って、医師を替えてみてはいかがでしょう。
精神医学は、身体医学とちがって方法論自体が確定していませんから、「どの医者を選ぶのか」というのは、「どういう思想を選ぶのか」に等しくなります。



*1:判定基準

*2:処理手順

*3:※引用者注:VI」は6、つまり次の改訂版「V」のさらに次の改訂版、ということです。

*4:「物質使用障害(Substance Use Disorders)」に合わせて言うなら、「クライテリア使用障碍(Criteria Use Disorders)」?

*5:今年の夏は、芸能人や政治家の物質依存が取りざたされましたが、マスコミでもネット上でも、嗜癖を「他人事」として論じている人ばかりでした。 しかし、同じ話題ばかり “報道” するマスコミや、強迫的に「○○障碍」という概念枠にこだわる人たちは、嗜癖的になっていませんか? どんな立場や事情にあっても、この問いは機能するはずです。 ここでは、人をカテゴリーで処理しようとするあり方そのものが問われています。 ▼ここにこそ、差別問題の雛型があります。差別する人は、差別という思考パターンに嗜癖している。人をカテゴリー分けして支援する「支援者」が差別発言をやめられないのは、彼らが自分の嗜癖する運動イデオロギーを対象化できないからでしょう。――硬直した社会性は、それ自体が嗜癖化する。(私は、他人事として論じるつもりはありません。むしろ「他人事」にしようとするメンタリティが、環境を悪化させる要因の一つであることを論じています。)

*6:※【原注】:International Classification of Disease, Injuries and Causes of Death の各版〔その後 International Classification of Disease and Related Health Problems と改称された〕、その精神医学版が International Classification of Mental and Behavioural Disorders である」 参照