「専門性」メモ 3 【1】 【2】 【4】 【5】 【6】

  • 各人の欲望が、「あるべき専門性の方向」を決めてゆく。 既存の専門性は、ある欲望の枠組み(ルーチン)に従っている。 支援される側の欲望(ニーズ)*1と、支援する側の欲望(なぜ支援するのか)のからまりあい。 相互に、公正さに基づいた再帰的自己検証が要る。
    • 既存の専門性は、ひきこもりが突きつけている問いを掬いきれているか。
    • 専門性の確定が、支援者の欲望を決める面もある。 何をすれば評価されるか、仕事をしたことになるか。
    • 金を払うのは親だが、サービスを受けるのは子供。 親子間の欲望は違っているので、「親さえ納得すればいい」ということではない。 逆に、「子供さえ納得できればいい」でもない。 ▼「専門性」「欲望」「公正さ」の関係が問われている。 「専門家」は、「公正としての正義」を裏切ってまでサービスを提供してよいのか。


  • 私は、サービス提供の専門性の問いに、《事後性》 《再帰性 という要素をぜひとも加えたい。 「事前に想定された快楽をその通りに実現する」という、一般に流通した「専門的サービス」のロジック*2は、《欲望》 《傷》 が問題になっているひきこもりという事案に、そぐわない。
    • 「お金を払って時間をかけたのに楽にならない」として、そこで期待されていたサービスは、(欲望の構成に関して)どのようなロジックに従っていただろうか。 相談する側もされる側も、「サービス内容の想定を間違っていた」(違法ではないにしても、目指すべき倫理を誤っていた)ということはないか。
    • 「社会に復帰してもらいたい」という、事前に設定された「下心」が、目的をスポイルする。 みずからの専門性のアリバイ(正当性)を疑いもしない「サービス」(再帰的検証のなさ)。 ▼その「専門性」に疑いをもつ消費者は、しかし、専門性に対する青写真を代わりに描けるわけではない。
    • 専門性への再帰的問いを的確に展開できること。 そこに専門性へのヒントがある。


  • 精神的な苦しみを、「孤立した個人の心理事情」に還元すること(心理学化)は、社会的要因を無視した脱政治化であり、そのこと自体がきわめて政治的な主張である*3。 サービス内容への民事的な契約確認は必須であるとして、相談を引き受けた個人に責任を(期待を)押し付ければいいというふうには、我々の苦しみは構成されていない。
    • 「お金を払って解決してもらう」のではなく、「取り組みを続けてゆく」、その随伴者との協力関係が問題になっている。 ▼「解決」という言葉は、ここでは悪しきキーワードになる。 「とにかく解決する」という態度は、その態度自身が悪。
    • ひきこもりにおいて問題となっているのは、「ひきうける」という人文的事象の成否であり、その原理が(再帰的に)問われている。 誰かが何かを引き受けようと決意するのは、最も微妙かつ致命的な実存の出来事であり、「とにかく社会復帰すればいい」というような粗暴な議論では、役に立たない。 ▼それでは、サービスを提供する側もされる側も、「ひきうけて」いない。 【そのような粗暴な議論は、何を「ひきうけて」いるのか。それを事後的に問題化すべき。】
    • ひきこもりに関わろうとする人間は、「ひきうけている自分自身の事情」を、再帰的・自己言及的に検証する必要がある。 「なぜ、自分はこれを引き受けているのか*4」。――いや、それもまだ正確ではない。 ひきうけている自分の事情を再帰的に検証するプロセスそれ自身が、政治的労働として、内発的なひきうけとして構成される。 そこに事後的に吸い寄せられることにおいて、公共的性格を持った分析が、内発的に模索される。 それはおのずから、「個人の心理事情」の分析を乗り越えてゆく。 ▼この労働(ひきうけ)は、それ自体が享楽の要素を含んでいる。 【享楽の倫理と、公共性の関係】




*1:参照:『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』(上野千鶴子・中西正司)

*2:この点については、三脇康生氏から個人的に示唆を受けた。

*3:私はここに、「自覚されざる洗脳」の要因を考えたい。 心理的苦痛の処理フォーマットの選択は、政治的選択である。 ▼心理主義的な「専門化」は、それ自体が政治的な主張。

*4:京都文教大学教授・高石浩一氏の個人的示唆によれば、「臨床心理士を目指す人には、《自分が楽になること》と、《他人を楽にすること》とを混同している人が多い」。 ▼この問題は、公共的な活動がとるべきスタイルの問いにとって内在的である。