アリバイ作り

女性に対する愛情や褒め言葉が、オリジナルで創造性の高いもの(高尚なもの)なのか、陳腐で安っぽい演歌(神話性の反復)なのか、みたいな話が某所で沸騰していた。


「誰かへのオリジナルな気持ちを持つこと」自体が、神話的反復で陳腐なのかな。
でも、「単なる美人」への賛美(相手は誰でもいい)と、「単独的で1回的な愛情」(代替不可)とは別だと思うのだが・・・。前者なら、「会ったばかりの人」でもいいが、後者では、時間をかけて愛情を育むプロセスが要るのではないか。


僕は相手に魅力を感じると、激しく緊張してしまって、さらには自分の態度がそうであるかもしれない朴訥な陳腐さや身勝手さに恐怖を感じてしまって(それでは失礼に感じて)、うまくいかない。たいてい、自意識からくる恐怖心が暴走して破綻する。好きになればなるほど、「これじゃいけない」という気持ちが暴走する。
愛情生活って、身勝手でもいいから、陳腐な神話的反復をうまくこなすことなのか。――というか、そういう「陳腐さへの恐怖」自体が陳腐だよな。「陳腐になっちゃいけない」と思えば思うほど、実際の言動も陳腐になってゆく。


などと考えていたんだが、


ヒミズ』『シガテラ』で話題になり、僕も最近興味を持った古谷実について、大澤信亮さんと杉田俊介さんの指摘にうなった。

 まずは両作品*1に共通する「隠されたもの」を引き出そう。
 それは一言で言えば女性恐怖である。(略)
 男たちの多様な描き分けと比べて、女は「典型的な美人」と「デフォルメされたブス」の二タイプしかいない。そして重要なことは「ブス」はどこまでも侮蔑の対象であり、「美人」は胸を揉もうが服を脱がそうが平手打ちをして怒るだけで、心の底から許さないという態度も、心の底から傷ついたという態度も決して見せないことだ。

 それはギャルゲーの主人公男性が、理由も無く無数の美少女から愛され、彼女たちと葛藤なく自由にセックスし、かつその一つ一つを純愛として正当化しうる、その「葛藤のなさ」の不気味さとも通じる。

少し訂正すると、
ヒミズ』『シガテラ』では女は、「典型的な美人」と「フツーの女」と「デフォルメされたブス」の3種類しかいない。主人公は、高貴な精神性を持った「典型的な美人」のバリエーションを好きになり、相手はいつの間にか「理由なく」こちらを好きになってくれる。「フツーの女」は自分と美女のつなぎ役であり、「デフォルメされたブス」は自虐的な笑いのネタでしかない。「デフォルメされたブス」に、検討に値する内面生活が描かれることはない・・・。


「僕の彼女への好意は、オリジナルで1回的なんだ!」という思い込み自体が、卑怯なアリバイ作りなのかな。――美人を好きになったときに感じる激しい罪悪感の源は、その辺か。「彼女がきれいだから好きになったんじゃない、僕は純愛として彼女を好きになったんだ」と言い訳してるような。(だから本当は、「彼女はすごくきれいだ」なんて、言いたくない。好きになった女性を、「きれいな女性の一人」にしたくない。)


こうした葛藤自体が自分をずたずたに切り刻み、「自分にはそもそも愛される可能性がない」「迷惑をかけるだけなのだから愛する資格がない」という「陳腐な悲惨さ」に、埋没してゆく。(いや、それはそういうあきらめで、自分を守ろうとしているだけなのか)
「陳腐な幸福」と、「陳腐な悲惨さ」。


重要なのは、誰かを好きになった気持ちは、「事後的に気付かれた癌」みたいなものではないか、ということ。それは「つらくて仕方ないが、好きになってしまったのだから仕方がない」というような、あきらめの気持ち。
葛藤ナシに褒め言葉を連発できる気安さには、「自分には、この人しか無理だ」というあきらめはない。相手への愛を謳い上げていても、ご都合主義のナルシシズムを確認しているだけだ。


――と、こういうことを考えているから、ますます愛情生活から遠ざかるのですよ。



*1:ここで言われている「両作品」は、古谷実行け!稲中卓球部』と木多康昭『幕張』