(1)について(「無意識的な愛」)

「僕の無意識が彼女を愛したとき…」は、東浩紀氏や柄谷行人氏の主張ではなくて、ラカン派の精神分析に出てくる議論から私が抽出し、以前から気にしながらも、その真意がよく理解できなかったテーゼです。 → 今回調べなおしたら、間違っていました…(泣)。
以下、ラカン派の議論の説明めきますが、私自身の再整理のために記しておきます。

 僕は彼女をどう見ているのだろう。僕の気持ちは愛情なのだろうか、欲情なのだろうか、ああ僕には分からない*1、と悩んだときには、こう考えてみるとよい。神様が僕を見るように、僕が彼女を見てあげることができるとき、僕は彼女を愛しているのだ、と。(新宮一成ラカン精神分析ISBN:4061492780 p.98*2

神についてはラカンに次のような発言があります。

 無神論の真の定式化はたんに「神は死んだ」ということではなくて、「神は無意識的である」ということ*3

私はこの「神は無意識的である Dieu est inconscient」を、「神とは無意識である Dieu est l'inconscient」と間違って記憶し*4、それを改変した新宮氏のテーゼに当てはめていたのでした。 → 「神=無意識が僕を愛するように、僕(の無意識)が彼女を愛せるとき、僕は彼女を愛している」と。


訂正して代入してみると、無意識的な神が僕を見るように(神が無意識的に僕を愛するように)僕が彼女を見る(無意識的に愛している)とき、僕は彼女を愛している」になります。
→ 「無意識的な」ものは、「事後的に」気付かれるのをその特性とする。つまり、相手のスペック(特殊性)を気に入り、「この人を愛そう」として愛するのは、「意識的損得勘定から愛する」のであって、「無意識的に愛する」ではない。しばらく一緒に過ごしていて、ある時点で突然「愛してしまっている」ことに事後的に気付く――それが「無意識的に愛する」だと思います。*5


ただし、「事後的に」といっても、出会った瞬間から魅力を感じていて、そのまま本気になってしまった場合、「いつまでが意識的な損得勘定で、いつからが無意識的な愛なんだ」というのは、よくわかりませんが。でも、「誰が見ても魅力的な人」を好きになったときに、それが自分のエゴなのか、それとも本当に相手を愛していると言えるのか、というのは、多くの人が悩むポイントではないでしょうか。
26日のエントリーでは、「無意識的な愛」の核心を、「事後的に発見される≪固有名のトートロジー≫」(単独性)に見出したわけです。スペックの羅列(確定記述)による「意識的な愛」(特殊性への執着)は、エゴでしかないだろう、と。――この理解がラカン派の精神分析とどの程度リンクするのかは、私にもよくわかっていないのですが、以下で少しだけ考察してみます。



*1:これは、若く美しい女性に好意を持った男性の多くが悩むところだと思います。

*2:同書は、「日本で最もよく読まれているラカン論」(アマゾンのレビューもすごく評価が高い)として英訳もされていますが、「何を言ってるのかぜんぜんわからない」という声も聞かれます。僕自身は、分からない点も多いのですが、よく参照しています。

*3:ラカン精神分析の四基本概念』ISBN:4000236210 p.79。無神論を「神は無意識的である」と定義することの政治的含意もよく話題になっているようです。

*4:ラカンは≪無意識=神≫と考えている」という理解は、「神は誤配しない」という東浩紀氏の指摘と、「誤配や紛失のない万能の伝達回路を前提とするシニフィアン」というラカン批判にもピッタリで、つい・・・。

*5:「この人はスペックがいいから、この人を好きになれたら得だろうな」と思いながら好きになれなかったり、逆に「こんな人を好きになってしまったら大変だ」と思いながらいつの間にか好きになってしまっていて困惑する、というのはよく聞く話です。