「固有名のトートロジー」と、≪対象a≫の共時的・通時的遍在性

私が新宮氏の『ラカン精神分析ISBN:4061492780 で、最も理解できず、なのに最も気になる箇所が、「対象aは黄金数である」という章(p.92)だ。
対象a≫はラカンジャーゴンの中でも鬼門の一つで(ラカン自身の学説の中でも位置づけが変わっていったらしい)、「欲望-原因-対象」*1とも呼ばれ、「乳房・糞便・声・まなざし」などとして精神分析面接に現れる、とされる。
「私にとっての他者は、私と他者の両方を合わせた普遍的な神のような視点から見た私の姿に等し」(p.97)く、この比率【他者:私=私:(私+他者)】がイコール≪対象a≫。私=X、他者=Y とすると、【  \frac{Y}{X}= \frac {X}{(X+Y)}=a 】*2で、これを計算すると a が黄金数であることがわかる、と。(???)


「単独性」の大事な特質は、「数えることができない」ということ、つまり「普遍のなかの個別」という状態にはない、ということだ。どんなに特異的であっても、それが「特殊性」であれば、「集合のなかの一要素」であって「数え」得る。しかし「単独性」は、その「このもの性(this-ness)」がキモであって、「集合の一要素」ではない=数えられない。
なので p.100 の「個別と普遍の無理数な関係」というタイトルは気になるのだが、

 私が何らかの他者に関係を持ち、その関係が、「私と他者の集合としての我々が、私に対して持ってくる関係」*3に等しいとき、対象a が現れる。対象a は、私にとっての他者の比率、実体としてよりも比率の面を表している。
 私が自分を自己同一性を持ったものと感じているとき、私はいわば「1」である。そのとき他者の中に、あの「(√5 -1)/2 」*4と書かれるべき 対象a が現れているだろう。(p.100)

この引用の前半は、上のほうで説明したように、「愛する人への関係」を記述する際に持ち出した構図であり、だから目の前の相手に≪黄金数=対象a*5が現れているとしたら、それは「愛する人」であるはずだ。しかしここの説明では、黄金数として現れる他者は誰でもいいのではないか。【普遍性の地点から相手を見つめれば、私は常に相手を愛していることになるのだから(キリスト教の「愛すべき隣人」のように、いくらでも代替可能だ)。それとも、「私が自分を自己同一性を持ったものと感じている」ためには、恋愛していなければならない、ということか?】


このことは、たぶん既存のラカン-ジジェク批判と通じていると思う。
波状言論05号の鼎談でも触れられていたが*6ラカンの析出した概念(とりわけ≪対象a≫と現実界)に対応する現実が、地理的・歴史的な状況の特異性と関係なく、共時的・通時的にどこにでも見出せる(遍在する)とする(少なくともそう読める)ジジェクの議論が、以前から問題になっている。


僕が26日のエントリーで「(無意識的な)愛の核心」と考えた「固有名のトートロジー」(「どうしてあなたはロミオなの!」)は、共時的・通時的にどこにでも見出せる*7という意味では遍在するが、当然ながら「誰に対しても見出せる」構造ではないし、そういう状態になるまでには「時間がかかる(共に過ごした時間が必要)」。トートロジーそのものは静的な構造かもしれないが、上記新宮氏の「黄金数」の説明には、「時間を経た結果ようやく(事後的に)見出せる」という要因がなく、初対面の相手にも見出せるような数学的構造として描かれている。


同じ構図は、ジジェクによってラカン化された反記述主義」*8で愛を論じようとする際にもある。固有名のすべてに宿る「剰余」は、「主体の欠如の相関物」としての≪対象a≫である(固有名には「言語体系のゲーデル的自壊(現実界 le réel)」が顕れている)というのだが、「すべての固有名対象a(という剰余)が宿る」としたら、「愛する者の固有名」と、「どうでもいい固有名」は、≪対象a≫という理論装置との関連でどう差異化されるのだろう。
つまり、対象a≫という概念は、「どこにでも見出せる剰余」を説明することはできても、「単独性に宿る剰余」については、うまく説明できないのではないか。【「貨幣は対象aだ」と言うことはできても、「(ジュリエットにとっての)ロミオは対象aだ」とは言えないのではないか。】


どうでもいい固有名にも最終的に宿るトートロジー(「アリストテレスアリストテレスだ」)と、愛する固有名(の魅力)を記述しようとする際に生じてしまうトートロジー(「おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの!」)は、どう違うんでしょうか。――この辺に、手がかりがあるような気がするんですが…。



*1:「欲望の原因」であって「欲望の対象」ではないのがヤヤコシイ。

*2:この辺、分数で表現したいのですが、書き込み方がわからないよー。【29日追記:コメント欄で id:dokusha さんとはしはたさんにご助言いただいて、書き直してみました。ありがとうございます!】

*3:わかりにくいので、私の判断でカギ括弧を入れました。

*4:黄金数

*5:対象a≫が「比率」である、という考えはやはり良くわからない。ジジェクの議論で≪対象a≫にはずいぶん夢中になったのだが、根本的に誤解していたのだろうか。

*6:「斎藤(環)さんの考えでは、ラカンは絶対的に正しいので、ラカンの理論を歴史的に位置づけることそのものが精神分析的に分析可能な営みにすぎないという話になる。キットラーの考えでは、そういう議論こそが20世紀に特徴的なもので、その起源は結局メディアの配置にあるとなります。」【東浩紀氏の発言】

*7:それこそシェイクスピアの時代にもあったわけだし。

*8:東浩紀存在論的、郵便的ISBN:4104262013 p.249