反復強迫としての《象徴的なもの》

《当事者》に関わる社会行為(発言・人間関係)が、つねにラカンのいう《想像的なもの》でしかない苛立ち。【もちろん他人事ではない。私はとにかく想像的なもの=人間的なものに吸い寄せられてゆく。それは明らかに《譲歩》だ。】 ▼ひきこもりとは「社会的行為の喪失点」であるという指摘(井出草平氏)。 社会行為の消失が社会的事象として発生する。 ▼「社会化」を「商品」「言語」との関係で考える(中野昌宏氏?)。


田崎英明氏:「あなたは私を満足させない

 そのようなナルシシズムの論理を乗り越えるために、いいかえるならば、コジェーヴの呪縛を断ち切るために、ラカンは、ハイデガーに近づいたのだといえる。それは、ハイデガーが、アーレントと彼女に従うものたちならば「公共領域」と呼ぶであろうものを「おしゃべり」Geredeの領域ととらえて、それに対する本来的な「語り」Redeを区別したハイデガーである。ナルシシズム=想像的なものに対して、やがて、象徴的なものが対置されるようになるが、象徴的なものは単純に共同主観性とか社会性と同一視されるべきではない。象徴的なものとは、他者から引き篭ること − それが去勢である − を通じて開かれる共同性にかかわっている。通常の意味での社会はむしろ、想像的である。

「おしゃべり」=「雑談」=「社会性」が《想像的なもの》であり、他者から引きこもって己の本来性に向かうところにむしろ《去勢》(象徴的なもの)を見る・・・。▼ひきこもりは常に「去勢されていない」という文脈で語られるが、閉じこもった状態において維持される社会性こそが「勘違いした自意識」=「妄想的ナルシシズム」=「幼児的万能感」か。だとすればそのナルシスティックな自意識自体が社会性の存続(継続)にあたる。
田崎氏の言う意味では、《去勢》は外部からの強制的説教によるのではなく、なにかしらいつの間にか気付かれてしまう「良心の呼び声」(ハイデガー)、最も親密であるにもかかわらず最も疎遠で取りつく島のない契機(外密extimité)*1としてではないか。 受動的に気付かれてしまう去勢。その反復強迫死の欲動)に《象徴的なもの》を見ること、そこに共同性の必須契機を見ること。*2


◆「超自我」を「攻撃欲動の内向化」と捉えていた柄谷行人氏。*3

 フロイトは、「人間の発達に対して影響をもつようなすべての内的強迫は、本来、人類史の観点からは、たんなる外的強制であった」とのべる。個人の道徳的「良心」は「社会的不安」にすぎない。そこでもし外的な強制が取り除かれれば、どうなるか。

 『快感原則の彼岸』において、フロイトは、本来なら不快であり避けられるべき行為が反復される事実に注目した。すなわち、不快な災害の場面をくりかえし反復する外傷性神経症の患者や、母の不在という不快な体験を遊戯によって幾度もくりかえす子供の例である。彼はそこにある反復強迫が快感原則より第一次的で根源的なもの(欲動)に由来すると考えた。簡単にいうと、これまでの見解では、超自我は「外から」到来し内面化されたものである。つまり、他律的である。ところが、新たな見解によれば、超自我は、むしろ「内から」生じる。それは攻撃欲動が自らに向かうことによって形成される。つまり、超自我は自律的なのである。

「社会順応しようとしない」のではなく、むしろ「社会順応せねばならない」という定言命法強迫観念化、身動きできなくなっているのが多くの引きこもり当事者。「社会復帰せねば、社会復帰せねば」と連呼すればするほど身動きできなくなってゆく。「順応しようとすればするほどできない」というジレンマ。▼当事者は、むしろ異常なほど規範を内面化してしまっている*4


◆「WhoTazaki」より:

 「なぜマルクスフロイト構築主義者ではないのか」、(ラクラウやバトラーの)「すべてを言説的実践として捉える傾向」「言説による一元的把握」への不満(ジジェクやコプチェクらに「歴史主義」と批判されているもの) ▼「セクシュアリティは差異の問題ではないし、また、同一姓(identity)の問題でもない。セクシュアリティは同じであること(sameness, homeness)にかかわっている。それは反復の問題なのである。反復において個体は本質を表現する。」「同じであることの反復を通じて本質を表現する実体論」「同じものの反復としての多数生(multitude)」、「実体(社会の分裂、主体の分裂)」の表現

私が「メタ」に関する言説をどうしても必要とする、というかどうしてもそっちにいってしまうのは、この反復強迫的な避け難さだ。「なんだこれは?」というメタな認識を「作らずにはおれない」。それは知的な関心ではなくて、「苦しいから」。▼当事者性とメタは反復強迫において連絡するのではないか。というか再生産せずにおれない。



*1:ハイデガーの「呼び声」を「extimite」と解していたのはジジェク

*2:田崎氏の説明の最後にある「象徴主義」「その都度のオペレーションに関して範囲が確定されていく」といった説明はまだ理解できず。でも気になる・・・。

*3:定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』p.71〜3。【参照】(id:kwktさん)

*4:井出草平さん、chikiさんの示唆