超越論システムと、主体化のプロセス
@schizoophrenie さんから頂いたコメントをきっかけに、*1
今の自分の理解のしかたについて、少し考えてみました。長くなったのでブログへ。
いつもながら的確なご指摘、ありがとうございます。あらかじめ決意があって 対象a による方針を拒絶したとかではなくて、「うまくいかなかった」というのが正直なところです。 20年ぐらい前にジジェクやマリーニ『ラカン―思想・生涯・作品』(原書)を通じてラカンに夢中になったあと、そのまま引きこもることしか出来ませんでした。
「そのつもりがなくとも生きてしまっている」、そうやって事後的に見つけ出されてしまうのが超越論システムではないでしょうか。私は、その事後的な気づきが形をとるときの強度を、重要なヒントにしたいのです。
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- この分節化は、能動的というよりは受動的に、取りつかれたように湧いてきます*2。 それを適切に社会に位置づけ、こうした分節が起きやすい場所を確保しておくことが、どうしても必要に思います。
この気づきは、「ないわけではない」対象を描き出したら終わりなのか。
むしろ、「そういうシステムを生きてしまっていた」≒「そういう方向で主体化/社会化されていた」、それに気づいたうえで、システムや作業過程そのものを組み替える仕事が始まらないのか。もちろん恣意的に変えることはできませんが、その「つくりなおす」という不連続が許されないと、どうも無理なんじゃないか。
すみません、まだ勉強不足もあってうまく言語化できないのですが、ジジェク的な 対象a の発見(に終始する議論)に、ものすごく息苦しくなったことは確かです。これは、「勉強すればするほど状態が悪化する」という(斎藤環さんも指摘されている)ひきこもり系メンタリティと関係するかもしれません。
超越論システムを指摘して終わってしまうと、まさにその形で固着してしまった引きこもりシステムに、うまく介入できません。とくに内側からどうしていいか、わからない。
リンクしてくださったナドーさんへの反論も、趣旨は同じのはずです。プロセスそのものに照準せず、あるスタイルの主体化を前提に話を進められてしまうと、まったく話に(あるいは関係性に)入っていけません。今回まとめさせていただいた発達障碍に関するやり取り(参照)が、まさにそのあたりの話に思えました。