憲法・公私・単独性
『憲法対論』ISBN:4582851649、ようやく第1章読了。 ひきこもりを考える上で必読と感じました。
1年前の僕なら、たぶん読めなかった。 致命的なものを扱う言葉が自分の中に成長するのに、これだけ時間がかかった、ということかもしれません。 僕は斎藤環氏の『社会的ひきこもり』ISBN:4569603785 が(おそろしくて)ずっと読めず、ようやく読んだのは(親の会での)カミングアウト後、支援活動を本気で検討し始めてからです*1。 内面的・外面的な文脈が熟さないと、(おそろしくて)とても読めない本、というのがあるのだと思います。
ひとまず、絡まりあう3つの軸を確認しました(これも自由間接話法的にやってみます)。
- (1)憲法
- (2)公共/公/私
- (3)特殊性/単独性
- 「祭り的“国粋”は、“愛国”の態を成さない」(p.48) → そこで「愛」の対象になっている「国」は、特殊性(確定記述の束)なのか、トートロジックな単独性*2なのか。
- 宮台氏は、憲法的な「個人レベルの代替不可能性」を問題にするだけでなく、(三島由紀夫氏の名前を出しつつ)「国レベル」でも「代替不可能性」を問題にしているように見える(p.30)。
- 僕は「国」は、行政登録等の「機能的存在」(特殊性)としか理解していなかったが、昨今の「愛国心」をめぐる議論は、そこに収まらないように見える。 「単独的な日本への愛」を口にすることは、「統治と動員のスキーム」として「あえて」持ち出されているだけ、と見過ごすことはできるか。
「憲法を認めない」派には、「あれはアメリカに押し付けられたものだから」という主張があるようです。 つまり、「日本固有の憲法を!」=「代替のきかない日本にふさわしい、(代替のきかない)単独的な憲法を!」と。 → 「憲法意思」そのものを「やまとごころ」に置きかえよう、ということでしょうか。
いっぽう、「日本国憲法は、特殊性(確定記述の束)として至上である」と考えれば、逆に「世界中の国が日本国憲法(と同型の憲法)を採用すべきだ」ということになる。(これは「日本が世界を支配する」とはまったくちがう。)