目指すべき包摂性のスタイル

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」というエントリーに、多くのコメントをいただきました(ありがとうございます)。 以下では、反論というより、議論趣旨の先鋭化を目指します。

 エスノグラフィーの手法としては普通だと思うけど。
 http://b.hatena.ne.jp/bokudakenosunaba/20090504#bookmark-13270012

社会学者なら、調査のためにヤクザと付き合っていても当然」というご意見だと思います。しかしそれだけなら、「研究者とヤクザの特殊な関係」を説明すればよいことです。
私が取り上げた箇所で宮台氏は、単に知的事業の説明をしたのではなく、「善意と信頼にもとづいた、主意主義的な関係能力」を推奨し、「私がその能力を身につけることができたのは、母親がスゴかったからだ」という因果説明をしています(大意)。
そもそもこの章は、「教育をどうするのか――若者論・教育論」と銘打たれており(第二章)、母親が子供に与える影響の話をする必然性はあっても、「成人以後のヤクザとのお付き合い」は、コミットの対象として必然的とは言えません。ここでの宮台氏は、「母親がスゴければ、ヤクザともつながれる」と、積極的な《教育論》をしているわけです

この箇所の直前では、「子供のころ、ヤクザの子がいちばん良くしてくれた」という体験談が語られ(p.94)、信頼ベースの《生活世界》が、逸脱者独特の包容力とともに紹介されています。宮台氏は、《つながりかた》に関するあるスタイルを提唱し、その恩恵の一つとして、「ヤクザに守ってもらえる」ことを体験談として紹介している。


不登校やひきこもりを出発点とする私は、単なる医療目線や “弱者利権” とは別のかたちで、人の社会参加について、臨床的な取り組みを探っています。 そして、自分が経験したトラブルやさまざまな間接情報から、「警察に頼るだけでは、生きられないのか…?」という、社会生活上の疑念をもつようになった。 以下、「日本を知るには裏社会を知る必要がある」(宮台氏の協力する「ビデオニュース・ドットコム」より):

 「やくざの活動と、日本の表の活動である政治、経済、外交は、複雑な絡まり合いのなかで運営されているのが現状。日本の本当の姿を知るためには、裏社会の問題について十分な知識がないと正確な分析はできない」 菅沼氏はそう述べたたうえで、日本の裏社会の構成要素として「やくざ・同和・在日」の3つを挙げた。また、やくざの6割を同和関係者、3割を在日韓国・朝鮮人が占めていると明らかにした。

排除された側が、やむにやまれず自前で包摂性を打ち建てようとすると、それは同時に組織暴力になるしかないのか。宮台氏は、ヤクザという《つながりかた》を称揚し、そのヤクザをも包摂できるような生活世界を呼びかけているように見えます。私はそこで、形式的に「ヤクザはいけない」と言っているのではなくて、そこで想定されている《つながりかた》にこそ、疑問を持っています。


たとえば本書では、「体育会系的文化――社会学でいうホモソーシャリティ」がベタに肯定され、子供たちについては、「成績よりも友達がいないことを心配せよ」という議論がなされます(pp.240-1)*1。 しかしこれでは、《つながる》という目的ありきで、実際につながろうとする人の(その意味でこそ当事者的な)困惑には、処方箋がありません。
ひきこもりを専門とする精神科医斎藤環氏は、ご自分の臨床ミッションを「数人の仲間ができるまで」に限定されています。しかし私はむしろ、その「仲間」こそが難しい。つながろうという願望はどこかで多くの人が抱えていても、実際につながろうとすると、作法が分からない。仲間というのは、「集まればできる」ものではないでしょう。人の集まりには、仲間よりはむしろトラブルがあります。
性愛的なものも含めて、人間関係や集団には、すでに或る《つながり》の制作作法が生きられています。その作法を対象化せずに、「つながる」という結果だけを目指しても、暗黙の前提のようなものを押し付け合うことにしかなりません。本書には、「間違った議論が包摂を生み出す」(p.244)とか、「分かっているけど、食えないから仕方がない」(p.274)など、人のつながりのどうしようもないあり方がいくつか描かれていますが、そうしたダメな選択肢も含めてどれもうまくいかなかった個人は、目の前でどうすればいいのか。

 近代社会学の父ウェーバー、E・デュルケーム、G・ジンメルが、社会学の問題設定を、ホッブズから引き継ぐ形で「いかにして社会秩序は可能か」に据えたとすると、ミードとパーソンズに始まる現代社会学は、この問いを「如何にして『みんな』への『コミットメント』は可能か」へと噛み砕きました。(宮台真司日本の難点 (幻冬舎新書)』pp.255-6)

構成員に自覚がなくとも、いつの間にか全体性に好都合なコミットメントが生じるには、どういう社会設計をすればよいか。そういう議論のなかでは、実は自覚的に取り組もうとした人間の作業主題は、一律に決められています――「ソーシャル・デザイン」というかたちで。だから、「宮台に実存の処方箋を求めるな」というのは、焦点を外している。なぜなら、宮台氏は「ソーシャル・デザイン」というかたちで、実存に「暗黙の最終解決」を与えているからです。そして、実存と作業主題を結びつけるスタイルの決定は、同時に《つながりかた》の決定でもある。宮台氏は、そこで体育会系を参照したり、ヤクザとの関係を範例にしたりしていますが、これではとても処方箋(マイクロレベルでの主題化)とは呼べません。


宮台氏は、ご自分がどういう《つながりの作法》を提唱しているかに、自覚的ではありません。にもかかわらず、それは実存をある作業主題に動員しています。

 宮台の本質は熱心な読者の自殺を引き起こした時代のそれと全く変わっていないと考えるべき
 http://b.hatena.ne.jp/kgotolibrary/20090505#bookmark-13270012

私もそう思います。宮台氏の議論は、《実存=生産態勢》を固定することで、一定の分析と包摂性を示しつつ、自意識や関係性の臨床という面からは、おそろしく非寛容な(自意識を自傷的に追い詰めるような)議論をしてしまっている。


くり返しますが、これは一方的に「道徳的非難」をしているのではなくて、《自意識とつながりの臨床》に関する模索であり、当事者的な処方箋の確認をしています。
「お互いの関係性を素材化し、そこで内在的に分節するチャンスをお互いに与えよう」という、今の私が最も先鋭的に主題化している臨床趣旨からすれば、「親分が黒といえば、白のものも黒になる」といわれる任侠的な関係性には、耐えがたいものがあります。しかし宮台氏は、その関係性の実態には触れないまま、ヤクザ世界とのつながりを称揚している。――焦点は、各論者がいつの間にか前提している、《つながりと包摂性》のスタイルです。



*1:この箇所にかぎらず、本書は宮台氏が繰り返してきた議論や立場を整理するのに、とても好都合です。一読したうえで、「どう反論するのか」を吟味する価値があると思います。