「小室直樹博士記念シンポジウム」 視聴メモ

いろんな意味で刺激的であり、すべて拝見した。
http://www.ustream.tv/recorded/13116411
http://www.ustream.tv/recorded/13120051
http://www.ustream.tv/recorded/13123376
http://www.ustream.tv/recorded/13125164

  • ウリ/グァタリの制度論を経由して聞く「構造-機能分析」の顛末。 参照PDF
    • 考える方針それ自体が、主観性や集団のあり方を強く規定する。 ある理論事業は、「理論的に考えるとはどういうことか」をめぐる態度決定の終わったあとの試行錯誤になっている。
    • 精神分析に出会い、システム論を生み出した時期のパーソンズは、個人的な危機にあった? 社会システム論じたいが、症候論的創出だったかもしれない。 参照*1 選びとられた理論方針は、その後の臨床と政治に影響する。


    • ≪近代社会における最大の対立は、既存のプラットフォームの中で最適化を目指す行政官僚と、いざとなったらプラットフォームを取り替えなければいけない政治家の間に存在する≫*2――集団ばかりでなく、各人の主観性それ自体が官僚化している。 おのれの主観性を組み替えることが、考えられもしない。
    • 制度分析/分裂分析は、まさに官僚的あり方と政治家的あり方の緊張として成立する。 「制度内の最適化を目指すべきなのか、制度それ自体の組み替えや遺棄(移住)を考えるべきなのか」。 その意思決定はどのような手続きで?
    • 社会参加を研究しなければならない業界が、官僚的メンタリティに支配されている*3社会参加が、組み換えという要因を禁止され、ひたすら権威主義的に威圧される。 ヒトにも組織にも、順応的な問い詰めしかない、それがますます自滅的。 とはいえ、「官僚的であるのはケシカラン」では処方箋にならない。


  • 資本主義と折り合いをつけながら社会が維持されてゆくには、相応の「エートス(心の態度)」が要るが、今はそれが調達できなくなっている。 エートスの機能的代替物」というテーマが切実になってくる。


 物理学や化学などの現代科学は、物質と法則という二つの同一性を追求してきたのだ、と言ってよい。この二つの同一性は不変で普遍であり、ここからは時間がすっぽり抜けている。別言すれば、現代科学は理論から時間を捨象する努力を傾けてきたのである。池田清彦生命の形式―同一性と時間 (哲学文庫―叢書=生命の哲学)』p.9)*4

    • 全体性と基礎づけを前提にする誇大的な科学主義において、≪自分が実際には何をやってしまっているか≫はついに分析されない。 基礎づけ主義が無限退行に陥るところで、時間を捨象しない「身体的に生きられる分析の時間」は、それ自体がエートスの実演。 悦に入ったディシプリン主義は、この時間を徹底的に抹殺し、そのうえで自分の殺したエートスの喪失を嘆く。夜郎自大な科学主義が、内在的・分析的なエートスを抹殺している。


  • 「国家は道具であり天皇は機関である」というなら、もっと快適な環境を提供してくれる国に移住すればよい*5小室直樹はそれをしなかった、という矛盾。
    • 自分が依存しているものには触らせず、他人が依存しているものだけを壊そうとする居直り。 自分はヤクザに依存しながら(参照)、他人の「今さらやめられない」だけをたしなめる宮台真司参照)。 ≪俺たちの故郷は自明なんだから、同じものに依存しろ。さもなくば出ていけ≫――ひきこもり状況は、このメカニズムの絡まり合いにある。 強迫的に確保された倫理的使命、自己防衛と一つになった狂信が、本人にはむしろ「合理的に選択された故郷」と見なされている。




小室直樹博士記念シンポジウム(世界文明センター)

  • 日程 2011年3月6日(日)
  • 時間 10時00分〜17時30分
  • 会場 東京工業大学大岡山キャンパス講堂


<第1部 小室博士の学問世界>――10:00〜13:20


<第2部 小室博士と現実政治>――14:40〜17:30

  • 討論者
    • 関口慶太(弁護士)
    • 村上篤直(『小室直樹文献目録』管理人)




*1:≪この時期、パーソンズには実兄(1940年)、両親(1943,44年)と近親者が相次いで死去するなど身辺上の出来事がいろいろと起こっている。そしてパーソンズ自身「この寄り道が突然起こった一要因」として医師である義父の死(1938年)をあげているのである。こうした諸事実は、パーソンズの「社会システム論の誕生」が、パーソンズ自身の〈病〉に対するひとつの「快方」(−〈予後〉)であった可能性を暗示させてしまう。≫(周藤真也)

*2:富永健一行為と社会システムの理論―構造‐機能‐変動理論をめざして』p.219: ≪システムがもとの構造に戻ることによっては均衡(システムの機能的要件が充足されている状態)を達成することができない場合、システムは新しい均衡を求めて構造変動の旅にさまよい出なければならず、そして新しい均衡は、さまざまな試行錯誤を経たのちに、より高次の機能的要件充足能力を実現するような構造が見出されたとき、もとの構造からその新しい構造に移行することによって成立する≫(参照PDF)。  ここにいう「構造変動の旅」は、受動性と能動性の絡まり合いであり、直接にはウリ、グァタリ、メルロ=ポンティらの言う意味での《制度》を、チャレンジの場所としている。 主観性と集団は、切り離すことができない。

*3:人間を名詞形にカテゴリー化する参与観察は、それ自体が耐え難く官僚的だ。 cf.≪社会学者の調査は、「フリーターについて」など、やる前からカテゴリーを決めてレッテルを貼っている≫文化系トークラジオLife, 2009年8月16日「「Life政策審議会」Part7(外伝1)」、樋口明彦氏の発言より)

*4:増補 民族という虚構 (ちくま学芸文庫)』p.307 からの孫引き

*5:弁護士資格の取得に日本では300万円かかるが、香港では2〜30万円ほどとのこと(山田昌弘)。 日本の制度に嫌気がさした女性が向こうで弁護士資格を取ったケースの紹介。 日本では、ちょっとした資格を取るにもすぐに数十万円かかり、しかもそれが必ずしも就労に結びつかない。