コメント欄
17日のコメント欄は、大事な投稿をたくさんいただきました。 以下、僕なりに整理してみます(自由間接話法みたいにさせていただきます)。 奥まった段落が僕のレスポンスです。
- id:anhedonia 氏: 「社会」や「国」を口にする人に「公」の意識があるわけではない。 「公」とは、批判的姿勢を維持する「まなざし」ではないか。
- ありがとうございます。 こういうことを言っていただけるとホッとします。
- nonaka 氏: 公私の境界をめぐる議論はパフォーマティヴ。
- miyagi 氏: 「主観と客観」
- 「客観」は、社会的な現実の中では「ヘゲモニー争い」の問題なんでしょうか。 「誰の主観的主張が“客観的”と見なされるか」というような。
- id:aimee 氏: 「世間」は英語に翻訳できない。 → id:igi 氏: 「otaku」「hikikomori」のように、「seken」として説明を試みる態度がいいのでは。 【→ 「seken」でググってみました。】
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- ひきこもり当事者の自意識は、「自分だけ間違っている」と「自分だけが正しい」の両極を往復しているように見える。 「自信を持って主張しつつ、正当な批判は受けいれる」というバランスがない。
- 同じことは、「ひきこもりについて発言する人」にも言える。 「ひきこもり」は、なぜか日本人のすべてを「にわか評論家」にする。
id:jouno 氏にご紹介いただいたページの記述と、投稿コメントを引用します(強調は引用者)。
ハバーマス系統の社会理論のキー概念のひとつに「公共性」があります。(中略)
公共性とは、たしかに「私的なもの」と対立する概念ですが、同時に政治権力とも対立する概念なんです。
# jouno 『コミュニタリアン的おおやけは、ひとつの「善」であり立場ですが、公共とは、複数の「善」を両立させるための、そして複数の「善」から個人を守る「距離」としてのロールズ的な「正義」にかかわるのではと思います。』
- 「公」は共同体主義でも語れるが、単一的な善。 「公共」は、「複数の善」を共存させる「距離」。