エリート・再帰性・症候

日本経済新聞 2月8日付 「ニッポンの教育」より

 司法研修所に十四年間在籍した加藤新太郎新潟地方裁判所長(56)は、“受験勝ち組”の気質の変化を肌で感じる。 (1)試験に必要なことだけを予備校で要領よく学ぶ効率型学習の弊害 (2)公的な職業に就くという意識の乏しさ (3)人生をどう生きるかといったビジョンを語れない――の三点だ。

これに対し、「公共精神を持て」と説教をしても意味があるように思えない。


以下、宮台真司氏による「エリート主義」の説明。

宮台真司: 再帰性の徹底に相当する部分を担うのはごく少数の人間たち。 あとの者はまったりしろ。 ▼大半の人間には再帰性の徹底よりも、むしろある種の「診断」を下し、「症状化」を肯定した上で再帰性を止めるほうがいい。

しかし、「エリートでありたい」というのは、単にフェティッシュナルシシズムでもあり得る。
それは再帰性の方向ではない。

斎藤環: じっさいに強い再帰性を生きているのは、制度的なエリートではない。 エリートはむしろ再帰的には考えていない。

再帰性それ自体は、むしろ目の前の仕事をできなくする方向にある。
制度順応のためには、再帰性はむしろ邪魔になる。


宮台真司氏は、「症状化を逃れる者こそが再帰性を担う」と考えている。 しかしひきこもりの臨床家たる斎藤環氏は、むしろ再帰性をこそ、人を社会生活から逸脱させる「症状」と見ている。 ▼お二人の方針を整理すると、以下のようになる。

ここで考えるべきなのは、「再帰性」「症状」「公私」の関係だ。


再帰性は、現象学的還元と同じく、まさに《症候として》生きられる*2
「症候を生きる」というラカン派の終極的スローガン*3は、私的閉塞ではなく、公的な倫理(公正としての正義)にもかかわるのではないか。 ▼《症候》を徹底的に(分析的に)生き抜くことが、同時に公共的態度でもあるのではないか。 それとも、公私は単に切り分けるべきだろうか。
むしろ、どんなに公共的に見える振る舞いであれ、それ自体が症候的な振る舞いである、という理解が必要に思う。 事後的な動機づけ分析を免除される行動というのは、あり得ない。



「症状」と「症候」

使い分けが、いまいちよくわかっていません。 個人的には、単に治療すべき個々の苦痛を「症状 symptom」、そうした現象の総体を呼ぶときには「症候」と呼び、ラカン派的な倫理的契機を扱う議論には「症候 sinthome」を充てています。



【追記】: 浅田彰草間彌生の勝利

「sinthome」で検索していて発見。
病い、作品創造、「センチメンタルな私小説」への批判。
また立ち返ると思う。 感動した。



*1:ただし斎藤氏は、2004年1月の段階で、すでに「家族内における公正さ」という課題を口にしていた(ひきこもり論をめぐる私的な会話)。

*2:ラカンいわく、症候なる概念を考え出したのは誰あろうカール・マルクスであった」(ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 p.21)

*3:cf.『人間という症候―フロイト・ラカンの論理と倫理』(藤田博史