「お前は異常だ」から 内発的個人化へ

ひきこもりの問題にこのように膨大な言葉への情熱を持つことは、私にとって症候的なものであり、倫理的な契機にあたる。
最近あらためて、「カウンセリング理論」や「DSM」の見地から、その熱意こそが治療されるべきであり、私の言葉には価値がない、むしろ多くの当事者にとって有害なのだ、という「診断」をいただいた*1
言葉の生産に過剰な熱意を持たず、人生には意味があると素朴に信じられる彼らこそが、「健全」という意味なのだろう。
私は、そういう思想をどうしても(症候的に)受け付けない。

不登校・ひきこもりという「逸脱」について、

近代主義との関係における思想史的位置づけが必要であり、
むしろ、症候的逸脱の形をとった倫理的契機について、検討すべきだと思う。
個体を内発的に個人化する契機としての症候。



*1:おそらくこの判断には、「だからお前は保護の対象になるべきだ」という理解も含まれている。 発言者には、必ずしも悪気があるわけではない。 ▼また、「病人」というカテゴリーがなければ、苦痛にあえぐ者は「悲惨の中に放置される」。 【参照:「カテゴリー化について 」】