本エントリは、twitter 上でのやり取りについて、あまりに長くなったお返事をまとめたものです。
直前の大まかな文脈についてはこちらを、さらに詳細なリンク先等はこちらを、ご覧ください。*1
《「理論」という言葉は、どういう意味で使われているか?》(togetter)
@ueyamakzk それはそれとして。上山さんは、ここで「理論」という言葉を持ち出しましたが、それは、一方では ちょっと異様な感じがします。(ふつう、他人のやり方(or失敗)を真似したり参考にしたりするときに、「理論」には訴えないでしょう。)
2012-11-14 02:06:40 via web to @ueyamakzk
ご指摘ありがとうございます。
「理論という言葉の前提が問題だ」というお返事を書いていたら、酒井さんも
「そもそも理論ってなんだ」 という話をされていたみたいです。
ひとまず私が「理論」という言葉で意味していたのは、
《正しさを主張し、説明する方針や枠組み》 ぐらいのことだったと思います。*2
私の「理論」という言葉の使い方がよく分からないというご指摘は、私にとっても有益でした。つまり私は、誰であれその人が依拠する「理論」(と私が名指したくなるもの)に、すごく苛立っています。*3
「そういう方向で正当化されても、必要なことを論じたことにならない!」 「そういう考察方針を選んだこと自体が、事象への裏切りになっている!」 というような。
相手が「○○理論」と名乗っていなくても、思考努力の方針そのものに苛立っているのですね。
結論以前に、《正当化の方針》そのものが焦点です(結果的な立場以前に、そこに問題があることに気づいた)。 「そういう方向で努力するということは、こういうことが前提になっている」――その前提部分に、とても苛立っています。*4
たとえば精神科臨床であれば、 「これは《根拠に基づいた医療》で、科学的な主張だから、反論の余地はない」 と言われても、
そもそも対人支援系の議論を、《病名カテゴリに落とし込めばOK》と思い込んでいる前提が、知的環境の全体をゆがめてしまっている。*5
そうすると、「どの病名に決めるかを迷っている」という思考方針は、結論部分で間違う前に、「病名を決めればいい」と思い込んでいる時点で、もうおかしいわけですね。――そういうことが、いろんなジャンルでいえると思うのです。
どんな人でも、結論に迷いはあっても、《考察のスタイル》は決まっています。「こういう方針で、正しさを求めるしかないよね」と。アジェンダ・セッティングの前に、アジェンダを探そうとするときの《努力の設計図》が、いろんな前提を含んでいる。
私はそこで、精神医学や心理学にも納得できないし、かといって、日本で80年代以降に量産された「20世紀フランス思想」の語りにも、満足できません。――というわけで、自分でモチーフそのものから、説明しなおさないといけなくなっています。
「孤立」のなかみ
大きく3つ、スタンスを分ける意味があると思います。
- (1)正当化の方針を疑い、それを変える努力としての20世紀フランス思想*6
- (2)それに疑念をもち、何でもかんでも「政治化する」とか言い出すことを認めない酒井さんのお立場
- (3)(1)の主流派とは違うかたちで、正当化の方針を変えるモチーフを必要とする上山。
酒井さんから見ると、私は(1)だと思うのですが、私自身が(1)の文脈に強く苛立っているので、
「(1)の立場を代表して、この数十年間の弁護をしてください」と言われると、困ります。
とはいえ私は、酒井さんのスタイルとも違っているはずなので、(3)について、説明する必要は残ります。――酒井さんに対してだけでなく、「何をこだわってんの…?」といろんな人に問われますし、私も「孤立してまで固執することに、必然性はあるのか?」を、確認せざるを得ません。
これがそのまま、次のご質問にかかわります。
@ueyamakzk 様々な領域の間を行き来する立場にいて「孤独」を感じることは私にもあるのですが、「孤立している」と感じることって私の場合は ほとんどないんですよね。上山さんの場合、どうしてそういうことになるのか。それがずっと気になっています。
2012-11-14 02:26:31 via web to @ueyamakzk
私が孤立したモチーフを必要とするのは、「選んだ」という以前に、「そういう必要が湧いてしまう」というようなことです。たんに一人になりたい、ということでもなくて。できれば一緒に考えたいのに。
「必要なことを考えると、いつの間にか独りになってしまう」という状態ですが、それが被害妄想的な自意識なのか、それとも積極的な意義のある孤立(≒オリジナリティ)なのか。 ラボルド病院を参照したりしながら、説明しなおす必要を抱えています。
不登校・ひきこもり系の皆さんは、「自分だけがおかしい」と思い込みがちです。ところが実は、「自分だけおかしい(≒個性がある)」という意識そのものが、あまりに凡庸です。(孤独だと感じる人たちは、実はお互いにひどく似通っている。)
ですから、たんに孤立を嘆くだけなら、主張としては取り上げるに値しません。
たんに「さびしい」と言ってるだけなので、やんわり放置しておけばいいでしょう。
そこで私は、たんに孤立を嘆くのではなくて、
- (a)孤立してまで、どういう趣旨を守ろうとしているのか
- (b)その実質的な中身は、協働で取り上げる意味があることなのか
これについて皆さんを説得し、正当化しなければなりません。
私が、たんに自分を改善すればよいのか。 それとも、
ほんらい尊重すべきものを、周囲や社会が受け入れていないのか。
一次的な逸脱と、二次的な逸脱
ここで試みに、
- (1)「社会参加がうまくいかない」という、戸惑うだけの一次的な逸脱 と、
- (2)それに対処しようとする局面で生じている、二次的な逸脱
を分けて考えると、
-
- (1)だけなら、「ケアして囲い込んであげればいい」という話になります。ここでは、包摂してあげれば良いだけなので、ケアする側の方法論は、さほど問われません。
-
- しかし、(2)が主眼になっているなら、今度はケアする側としても、自分の方法論を問われていることに、気づいてもらわなければなりません。ここに、一次的な逸脱とはやや別の軋轢が生じます。
私の力点は(2)に移っているのですが、これは(1)で体験する一次的な、受身的な逸脱と、切り離すことができません。
多くのかたは、(1)の受身的逸脱を体験したあと、支援イデオロギーを受け入れます。これなら、(1)の逸脱はあっても、それをきっかけに、(2)の局面では集団的所属を得ることになります。
つまり、(1)の逸脱を全面的に包摂するアプローチに囲まれ、本人もそれを(2)として共有することで、孤立を回避できるようになったわけです。――ところが私は、(2)についてまで、孤立を感じています。*7
前にご一緒した「笑い」のモチーフもそうですが(参照)、私は酒井さんとは逆に、「周囲といっしょにいる感じを持つ」 あり方が、本当に分かりません。
ムリに同調しようとしても、自意識的な演技とか、「本当は必要としている問題意識を抑圧して、ムリに作り笑いする」とか、そういう苦しい状態が始まってしまう。
そこで、やや唐突な印象になると思いますが、
私としては、つなげて理解するしかないお話をさせてください。
《身体的に生じてしまう思考》というモチーフ
「自分としては周囲に合流したいのに、なぜかうまく行かない」という私の体験は、モチーフとしては、
中学時代に下痢やめまいが始まり、学校に行けなくなったことに、重なります。
俺はこんな激しい症状が出てるのに、なんでみんなは、当たり前に座ってられるんだ…?
ぎゃくに周囲の同級生は、「こいつは学校に来てるだけで、なんでこんなに大騒ぎしてるんだ…?」と、不思議だったと思います。 医者に行っても、「過敏性腸症候群」とか、名前はつくけど何にもならない。そもそも病気役割ではないし、仮病を疑われもします。
「過敏性腸症候群(IBS)」はいまや珍しくないですし、そもそも下痢症状をほかの皆さんと「共有」したって、意味がありませんよね。……ギャグみたいに聞こえてしまうと思うのですが、たぶんこの辺に、決定的な点があると思います。
私の場合、考察そのものが、下痢の症状みたいに周囲と別の回路で生じてしまって、それを我慢しても、あるいはそのまま口にしても、その場にいられない。そして、《そういうタイプの思考》の必要は、どうやら感じているのは、身近では自分だけらしい――というような。*8
私は今、自分にとって不可避の思考を《身体の症状》として語ったのですが、たんに下痢症状であれば、止めるべきでしょう(薬も売られています)。 ぐっと息をつめて、訓練とかして。
しかし私は、この《身体症状のような思考》に、別の位置づけや活用がないものか、ずっと考えている形になります。(身体反応をたんに否定するのではなく、かといって、たんに垂れ流すのでもなく、積極的に生きられないか。)*9
これこそが、酒井さんのお考えになる《厳密な思考》と、ちがう路線ではないでしょうか。ロジカルな厳密さを探すだけなら、身体症状はお役御免というか、最初から「ないほうがいいだけのもの」です。
私が経験する逸脱は、《身体症状のような思考》を尊重せざるを得ない状態に、私を追い込んでいきました。*10 たんに理性的に自己管理すれば順応できたはずなら、私は身体症状に苦しんでいないのです。
あるいは逸脱したあとにも、たんに包摂的なイデオロギーに馴染めれば、私は「不登校経験者」として、あるいは「ひきこもり当事者」として、先行世代の用意したコミュニティで、やっていけたかもしれません。
もういちど整理すると、私は
- (1)何が起こっているのかわからないまま、ひたすら怖く、おびえることしかできない逸脱
にいるのではなくて、
- (2)生じていることの内実はよく分からないが、自分に課せられた《身体的な思考の必要》を、方法の拠点としてむしろ積極的に選び取り、それを彫琢しようとしているのだが、
そこで周囲のスタンスと相容れず、孤立する形になっている。
つまり、
- (1)たんに受動的な逸脱 と、
- (2)受動的なものが発端でも、方法的に選び取られたあとの努力で生じる逸脱
について、分ける必要があるのだと思います。
*1:11月13日付の私のツイートはこちら(←このリンク先は、下から上に向かって読みます)。
*2:最近の私はそれを、マルクスの「生産様式」という概念に重ねて理解するようになりました。とはいえ、そういう説明の中身じたいが今後の課題です。
*3:わざわざ「○○理論に基づけば」とか言わなくても、私たちの思考は、いつの間にか「理論みたいなもの」に、依拠していると思います。
*4:そこをうまく説明すれば、私の苛立ちや提案も、もう少し伝わる話になるかもしれません。今のところ、「メタに居直るような話をするな」とか、その程度の言葉づかいしかしかできていません。▼これは、調査倫理をめぐる焦点でもあります(参照)。 「理論をやってるんだ」は、そんなに万能の言い訳でしょうか。
*5:そういうモチーフは、多くの方と共有しています。(精神科医もふくめ)
*6:リオタール『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))』では、《正当化のあり方》が、大きなテーマでした。
*7:私が「名詞形の当事者論をやめましょう」と提案しているのは、そういう文脈の話になります(参照)。
*8:下痢症状のように不可避の思考は、ひきこもり系コミュニティに限らず、どこでも歓迎されないと感じています。
*9:ふつうは、プライベートな病気と位置づけられて終わりです。
*10:そこで体験してしまう思考が、ラボルド病院で語られている 《制度分析 analyse institutionnelle》 や、のちにグァタリが語った schizo-analyse というスタイルの提案に、重なっているのではないか。それは80年代〜に浅田彰氏ほかがしていたのと、まったくちがう話です(参照)――私の焦点は、このあたりです。