分析的な 《つながり方》 を設計するために

以下の酒井泰斗氏のご指摘は、さまざまな関係者にも読んでいただきたく、まとめてみました。
直接には私へのレスポンスですが、「これにどうお答えするか」というのは、
技法のもんだいとして、時間をかけて議論したいです。


分析にあたっては、継続的な修正のできるやり方が必要(酒井〔contractio〕氏)
以下、現時点で答えられることにお返事してみます。



《当事者》枠とディシプリン

「A と B はどう関係しているのでしょうか」というご質問でした。*1


問題の焦点は、次のような語りや、関係処理の発想法です。

 学者や医師、そして支援対象者等が、具体的な関係実態について
 免責される権利があるかのように語る



この場合、そのような現場や言説は、おのれや対象を 《名詞形》 で語り、
論じる行為そのものについては

  • (1)ディシプリンにおいて、 あるいは
  • (2)語りのポジションにおいて、

免責されることが前提であるかのように語るのです。


具体的な状況を描写したほうが良いと思うので、いくつか挙げてみます。

【ケース1】

  • 職場で、40歳の男性上司と、25歳の女性部下がいたとします。この上司が部下にひどい言動をとった場合、上司側が加害者として制裁を受けるでしょう。
  • ところが支援現場で、「40歳の男性当事者が、25歳の女性スタッフにひどいことをした」場合、どうなるか。この女性スタッフは往々にして「我慢しなさい」と先輩から叱責され、40歳男性は「当事者さん」ゆえに制裁を受けないのです。(むしろ女性側が加害者にされることすらある)*2
  • ここでは、名詞形の枠組みである《当事者》が、問答無用の保護の対象となり、過剰かつ不当な免責がなされています。状況によって、保護の対象となる《当事者》枠は、さまざまです。たとえば「女性」そのものも、場面によっては絶対的保護の枠組みとして、不当に免責され得るでしょうが、それは実質的には差別です。(対等な責任能力がないとされている)
  • 必要なのは、どちらか片方を過剰に免責することではなく、状況そのものにどんな前提が機能していたかを検証し、改善することでしょう。そして関係性については、具体的にそのつど、検証する必要があります。(肩書きは「アリバイ」ではなく、関係上の要因のひとつです)

【ケース2】

  • ひきこもり問題で「当事者」を自称する 学者A が、参与観察を行なった。ここで 学者A は、自分がコミュニティで受け入れてもらいたいときには「私は当事者です」と名乗り、言説で優位に立ちたいときには「私は学者ですから」「あなたは当事者に過ぎないでしょ」と威圧した。
  • 学者A はコミュニティでトラブルになったが、学問研究を口実に免責を自明視した上に、「当事者」という理由でも、免責を自明視した。そうした規範的判断を、周囲の関係者も支持しがちだった。
  • つまり 学者A は、「学者ポジション」「当事者ポジション」 を都合よく使い分け、いかなる場面でも責任を取ろうとしない。しかし本当は、学者ポジションを通じての関係構築がどうであったのか、あるいはまた、「当事者」を名乗ることで関係実態がどう変化したのか――それをこそ社会学者は報告し、論じるべきではないのか。
  • 「当事者は免責され、学者はディシプリンで免責される」という現状では、参与観察の実態は隠蔽され、分析の対象にならない。 ここで、ひきこもり問題における重大かつ核心的な研究論点が抑圧される。つまり、親密圏の実態や作法を、研究上のモチーフにすることができない。

【ケース3】

  • 社会学者・貴戸理恵氏が不登校経験者にインタビュー*3を行い、研究成果を書籍化した際、支援団体「東京シューレ」とのあいだに生じた事案参照。 この紛争においては、貴戸氏側も団体側も「当事者の声」に依拠した。つまり「当事者」は、権威性の枠組みとして機能した。
  • 貴戸氏は著書『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』で、不登校経験者を列記して紹介する中で、ご自分自身を「Nさん」として登場させ、あたかも聞き取りを行なった対象者であるかのように論じた参照。 これは論文作法からの明らかな逸脱に見えるが、アカデミック・サークルからは免責されている。 ご本人も、その後この問題を扱っていない。

【ケース4】

  • (a)精神病圏の患者さん向けの通所施設で、スタッフ(研修者)をやったときのこと。私は患者さんとの関係にできる限り線引きをせず、横目線の関係を築こうとして、失敗していた。そこでスタッフ・ミーティングで、「やっぱり、神経症圏と同じというわけにはいきませんね」と発言したところ、先輩にあたるワーカーさんに「それが差別なんだ!」と、激しく叱責された。
  • (b)ところが後日、私が 「これだけ立派な施設ですから、インフラがなくて困っている神経症圏の患者さんにも、利用してもらえないでしょうか」 と質問したところ、「ここは精神病圏の患者さんだけ」 と、線引きを自明視された。
    • 「線引きしてはならない」という(a)の要請と、線引きを絶対視する(b)は矛盾しているが、スタッフの間では、これは矛盾とは考えられていなかった。 つまり「当事者枠を別格扱いにしている」という実態は、必ずしも関係者には自覚されていない。



これは、私が差別問題で指摘した

というモチーフに、そのまま重なります。
つまり支援や研究は、多くの場合その実務じしんが差別の再生産になっている。
これを何とか、(差別問題について提案したように)動詞レベルの試行錯誤に、変えてゆけないだろうか。


――以上がひとまず、【酒井さんのおっしゃった】「それが生じる状況-に参加している人たちが-何をどのようにしたか-についての分析」 と、それに対する、私なりの提案に相当します。


支援や調査の関係性は、「医師」「学者」「利用者さん」と、肩書きが極端に区切られています。医師はつねに《治す側》であり、患者は《治される側》。 学者は観察「する」側、あいては観察「される」側。

このような発想法は、現場を仕切るのに効率的だからこそ維持もされているのですが、弊害にもなっているのです。


たとえば患者さんは、協力のあり方によっては、医師を含む状況全体の改善者として現れてこないでしょうか。あるいは「観察される側」は、同時に観察者を「観察する側」でもあります。

医師や学者も、それぞれのポジションで板ばさみになり、葛藤を抱えていますから、それについても一緒に、研究することはできないでしょうか(それはいつの間にか、協働的な参加になっているでしょう)*4。 どのような形であれ、肩書きよる特権的な免責や、その逆の過剰責任は、不当だと思うのですね。



《厳密さ》の方針

失礼しました。
ここではひとまず、《その場で目指されている丁寧さの方向》 というぐらいで、
「酒井さんの場合にだって、そういうものが設定されているはず」
「それはきっと、私とは違っているでしょう」 という話を、したかったのでした。


《理論》 という単語もそうですが、正当化や厳密化の努力があったときに、その方針は、いつの間にか自明視されているけれども、つねに括弧に入れなおして、問い直す必要があると思うのですね。(その方針そのものが共犯者になっている、というのが、私の執拗なモチーフです。)


ですので、

これはまったくその通りであると同時に、
私は 《分析対象の事情や分析の目的など》 に応じたやり直しの現状に、
不満を抱いていることになります。


フッサールのいう 超越論的還元 が、私の言うような 《努力の方針》 についてまで論じていたかは存じません。 私は 《動詞の実態》 についても、その設計図や前提部分について、問い直したいのです。(フッサールの還元は、それ自体が「動詞の提案」だったと思います。私ならそう理解します。)



「自分たちを分析する」という危険なこと

なるほど。

はい。

これは素晴らしいご指摘で、言われてみれば当たり前なのですが、
私はそうしたことについて、うまく自覚できていなかったように思います。
臨床系の皆さんとも、ぜひこの論点を共有したいです。



ひとまず、以上です。

いただいたご指摘に感謝申し上げます。>酒井さん



*1:酒井さんのご希望により(参照)、冒頭最初の発言を、修正されたものに差し替えました。もとの発言はこちら。 カッコ内に 「-についての分析」 が追加されただけで、発言趣旨は変わっていません。

*2:ここでは仮定の話をしていますが、現実にそういう関係処理はつねに為されています。

*3:【追記】: エントリ時に「参与観察」と書いていたのですが、『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の調査は「インタビュー」であると繰り返し書かれているので(p.101〜など)、それに倣います。

*4:患者サイドが特権的にチヤホヤされることがなくなれば、患者ポジションから出された言説が、不当に枠付けされることもなくなるはずです。この《当事者》問題をうまく扱えるディシプリンを、いまだアカデミックな言説は開発していないように見えます。