以下の酒井泰斗氏のご指摘は、さまざまな関係者にも読んでいただきたく、まとめてみました。
直接には私へのレスポンスですが、「これにどうお答えするか」というのは、
技法のもんだいとして、時間をかけて議論したいです。
●「分析にあたっては、継続的な修正のできるやり方が必要」(酒井〔contractio〕氏)
以下、現時点で答えられることにお返事してみます。
《当事者》枠とディシプリン
【1】 「A:苛立ちの分析」は──「苛立っているひとの分析」ではなくて──、「それが生じる状況-に参加している人たちが-何をどのようにしたか-についての分析」を必要とするでしょう。
@ueyamakzk ところで、そうしたことと、「B:悩んでる人、弱い立場の人を一方的に《当事者》と名詞化するのではなくて、…、分析してもらえませんか?」というお願いの内容にはずいぶん距離があり、直接には結びつかないように思います。
2012-11-16 10:21:54 via web to @ueyamakzk
「A と B はどう関係しているのでしょうか」というご質問でした。*1
問題の焦点は、次のような語りや、関係処理の発想法です。
学者や医師、そして支援対象者等が、具体的な関係実態について
免責される権利があるかのように語る
この場合、そのような現場や言説は、おのれや対象を 《名詞形》 で語り、
論じる行為そのものについては
- (1)ディシプリンにおいて、 あるいは
- (2)語りのポジションにおいて、
免責されることが前提であるかのように語るのです。
具体的な状況を描写したほうが良いと思うので、いくつか挙げてみます。
【ケース1】
- 職場で、40歳の男性上司と、25歳の女性部下がいたとします。この上司が部下にひどい言動をとった場合、上司側が加害者として制裁を受けるでしょう。
- ところが支援現場で、「40歳の男性当事者が、25歳の女性スタッフにひどいことをした」場合、どうなるか。この女性スタッフは往々にして「我慢しなさい」と先輩から叱責され、40歳男性は「当事者さん」ゆえに制裁を受けないのです。(むしろ女性側が加害者にされることすらある)*2
- ここでは、名詞形の枠組みである《当事者》が、問答無用の保護の対象となり、過剰かつ不当な免責がなされています。▼状況によって、保護の対象となる《当事者》枠は、さまざまです。たとえば「女性」そのものも、場面によっては絶対的保護の枠組みとして、不当に免責され得るでしょうが、それは実質的には差別です。(対等な責任能力がないとされている)
- 必要なのは、どちらか片方を過剰に免責することではなく、状況そのものにどんな前提が機能していたかを検証し、改善することでしょう。そして関係性については、具体的にそのつど、検証する必要があります。(肩書きは「アリバイ」ではなく、関係上の要因のひとつです)
【ケース2】
- ひきこもり問題で「当事者」を自称する 学者A が、参与観察を行なった。ここで 学者A は、自分がコミュニティで受け入れてもらいたいときには「私は当事者です」と名乗り、言説で優位に立ちたいときには「私は学者ですから」「あなたは当事者に過ぎないでしょ」と威圧した。
- 学者A はコミュニティでトラブルになったが、学問研究を口実に免責を自明視した上に、「当事者」という理由でも、免責を自明視した。そうした規範的判断を、周囲の関係者も支持しがちだった。
- つまり 学者A は、「学者ポジション」 と 「当事者ポジション」 を都合よく使い分け、いかなる場面でも責任を取ろうとしない。しかし本当は、学者ポジションを通じての関係構築がどうであったのか、あるいはまた、「当事者」を名乗ることで関係実態がどう変化したのか――それをこそ社会学者は報告し、論じるべきではないのか。
- 「当事者は免責され、学者はディシプリンで免責される」という現状では、参与観察の実態は隠蔽され、分析の対象にならない。 ここで、ひきこもり問題における重大かつ核心的な研究論点が抑圧される。つまり、親密圏の実態や作法を、研究上のモチーフにすることができない。
【ケース3】
- 社会学者・貴戸理恵氏が不登校経験者にインタビュー*3を行い、研究成果を書籍化した際、支援団体「東京シューレ」とのあいだに生じた事案【参照】。 この紛争においては、貴戸氏側も団体側も「当事者の声」に依拠した。つまり「当事者」は、権威性の枠組みとして機能した。
- 貴戸氏は著書『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』で、不登校経験者を列記して紹介する中で、ご自分自身を「Nさん」として登場させ、あたかも聞き取りを行なった対象者であるかのように論じた(参照)。 これは論文作法からの明らかな逸脱に見えるが、アカデミック・サークルからは免責されている。 ご本人も、その後この問題を扱っていない。
【ケース4】
- (a)精神病圏の患者さん向けの通所施設で、スタッフ(研修者)をやったときのこと。私は患者さんとの関係にできる限り線引きをせず、横目線の関係を築こうとして、失敗していた。そこでスタッフ・ミーティングで、「やっぱり、神経症圏と同じというわけにはいきませんね」と発言したところ、先輩にあたるワーカーさんに「それが差別なんだ!」と、激しく叱責された。
- (b)ところが後日、私が 「これだけ立派な施設ですから、インフラがなくて困っている神経症圏の患者さんにも、利用してもらえないでしょうか」 と質問したところ、「ここは精神病圏の患者さんだけ」 と、線引きを自明視された。
- 「線引きしてはならない」という(a)の要請と、線引きを絶対視する(b)は矛盾しているが、スタッフの間では、これは矛盾とは考えられていなかった。 つまり「当事者枠を別格扱いにしている」という実態は、必ずしも関係者には自覚されていない。
これは、私が差別問題で指摘した
というモチーフに、そのまま重なります。
つまり支援や研究は、多くの場合その実務じしんが差別の再生産になっている。
これを何とか、(差別問題について提案したように)動詞レベルの試行錯誤に、変えてゆけないだろうか。
――以上がひとまず、【酒井さんのおっしゃった】「それが生じる状況-に参加している人たちが-何をどのようにしたか-についての分析」 と、それに対する、私なりの提案に相当します。
支援や調査の関係性は、「医師」「学者」「利用者さん」と、肩書きが極端に区切られています。医師はつねに《治す側》であり、患者は《治される側》。 学者は観察「する」側、あいては観察「される」側。
このような発想法は、現場を仕切るのに効率的だからこそ維持もされているのですが、弊害にもなっているのです。
たとえば患者さんは、協力のあり方によっては、医師を含む状況全体の改善者として現れてこないでしょうか。あるいは「観察される側」は、同時に観察者を「観察する側」でもあります。
医師や学者も、それぞれのポジションで板ばさみになり、葛藤を抱えていますから、それについても一緒に、研究することはできないでしょうか(それはいつの間にか、協働的な参加になっているでしょう)*4。 どのような形であれ、肩書きよる特権的な免責や、その逆の過剰責任は、不当だと思うのですね。
《厳密さ》の方針
@ueyamakzk 【2】この記事の「厳密な思考」というのは何を捉えて使った表現でしょうか。(twilogで検索してみましたが、私は使ったことのない表現だと思います)URL
2012-11-16 10:23:14 via web to @ueyamakzk
失礼しました。
ここではひとまず、《その場で目指されている丁寧さの方向》 というぐらいで、
「酒井さんの場合にだって、そういうものが設定されているはず」
「それはきっと、私とは違っているでしょう」 という話を、したかったのでした。
《理論》 という単語もそうですが、正当化や厳密化の努力があったときに、その方針は、いつの間にか自明視されているけれども、つねに括弧に入れなおして、問い直す必要があると思うのですね。(その方針そのものが共犯者になっている、というのが、私の執拗なモチーフです。)
ですので、
@ueyamakzk 「どの程度の・どういう性質の厳密さが必要か」は、分析対象の事情や分析の目的などに規定されるものだとおもいます。(常識的に考えて)
2012-11-16 10:24:31 via web to @ueyamakzk
これはまったくその通りであると同時に、
私は 《分析対象の事情や分析の目的など》 に応じたやり直しの現状に、
不満を抱いていることになります。
フッサールのいう 「超越論的還元」 が、私の言うような 《努力の方針》 についてまで論じていたかは存じません。 私は 《動詞の実態》 についても、その設計図や前提部分について、問い直したいのです。(フッサールの還元は、それ自体が「動詞の提案」だったと思います。私ならそう理解します。)
「自分たちを分析する」という危険なこと
@ueyamakzk 【3】「自分たちを分析する」というのはしばしば危険なことなので、「やったら嫌われました」と言われてもまったく驚きません。むしろ「そりゃそうだろうな」とおもいます。(常識的に考えて)
2012-11-16 11:40:05 via web to @ueyamakzk
なるほど。
@ueyamakzk 「誠実に分析すれば良いのではなくて、《許される分析と、許さない分析》がある」といった可能性のほかにも、1)分析が間違っていた。2)分析が下手だった。3)分析のプレゼンが下手だった。などいろんな可能性が考えられますよね。
2012-11-16 11:40:54 via web to @ueyamakzk
はい。
@ueyamakzk 難しい課題に取り組むときは、一発で解に到達できないことは前提した上で、継続的な微修正による改善が可能となるようにやり方を組んで置かないと、やりたいことが実現できませんよね。
2012-11-16 11:49:31 via web to @ueyamakzk
これは素晴らしいご指摘で、言われてみれば当たり前なのですが、
私はそうしたことについて、うまく自覚できていなかったように思います。
臨床系の皆さんとも、ぜひこの論点を共有したいです。
ひとまず、以上です。
いただいたご指摘に感謝申し上げます。>酒井さん
*1:酒井さんのご希望により(参照)、冒頭最初の発言を、修正されたものに差し替えました。もとの発言はこちら。 カッコ内に 「-についての分析」 が追加されただけで、発言趣旨は変わっていません。
*2:ここでは仮定の話をしていますが、現実にそういう関係処理はつねに為されています。
*3:【追記】: エントリ時に「参与観察」と書いていたのですが、『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の調査は「インタビュー」であると繰り返し書かれているので(p.101〜など)、それに倣います。
*4:患者サイドが特権的にチヤホヤされることがなくなれば、患者ポジションから出された言説が、不当に枠付けされることもなくなるはずです。この《当事者》問題をうまく扱えるディシプリンを、いまだアカデミックな言説は開発していないように見えます。