「主体化できない」という、欲望臨床の問題

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』については、
精神分析ブルジョア性を批判する」みたいな論評もあるけど、
むしろそういう趣旨も含めて、欲望臨床それ自体の提案であり、
タグを付けるなら やってみた だと思う。*1


つまり、主体化がうまく行かない場所で、あるスタイルを提案しながら
実際にそれを「やってみた」ということであり、背景的なメインテーマは、
私たちが生きざるを得ない主体化の困難


あくまで欲望臨床が先であって、資本主義批判のイデオロギーが先にあるのではない。
イデオロギー的な「アリバイ」を確保してから読むんでは、意味はまったくないと思う。*2


マルクスの『資本論 (1) (国民文庫 (25))』にしたって、資本主義批判のイデオロギーを前提に読んで、意味があるだろうか。あれは「分析を徹底させる」ことでマルクスが欲望を生きてみせた――そこに醍醐味があるんでは。


だから分析の方針(欲望の指針)を別に立ててディシプリン化するなら、
ああした本にはまったく意味がない。


商品の不思議さにこだわり、それを価値と使用価値に分け、《価値の形態》にこだわるなんて、主体化のスタイルを決めた人たち(そういう状態であると気づいてもいない人たち)に、意味があるだろうか。
彼らはすでに、自分の意識と存在をどうするか、問題意識のスタイルをどうするか、問わない*3そこに集団的な弊害があっても、加担者であり続ける。そこで自分を主体化し、社会化し続ける。


しかし破綻した人は、

  • 自分の作業をどう始めるのか
  • 集団的なあつれきの中で、自分はいかに社会化されるのか

―― やり直さざるを得ない。(それがすでに、欲望を生きることになっている)*4


あれこれの有名な本は、「他人が欲望を生きた」痕跡だから、
言葉づかいを真似ても、自分の欲望を生きることにはならない。
自分のいる場所で、素材化をやり直すしかない。



*1:【追記】: とはいえこれは、自分が実験体になっての素材提供であり、生活レベルの試行錯誤にあたる(いわば舞台裏を組み直せるかどうか、という話)。 自意識フレームでの「コスプレ」や「目立ちたい」とは、真逆の試み。むしろ《やってみた》という言葉に、強硬な自意識とは別の趣旨を与えたい。 「やってみた」が、承認かせぎやナルシシズムの共有でしかないなら、チャレンジはすべて、自意識に回収されてしまう。試行錯誤のすべてが、「舞台の上の自意識」のかたちをしている(努力方針のルーチン化)。 協働性それ自身が、自意識の再生産を前提にしている。 最初のエントリ後、本文じたいに書き換えや追加を行ないました。】

*2:なぜならそうしたイデオロギーも、欲望の素材的生成を監禁するものでしかないから。「オイディプス批判」は、それ自体がイデオロギー化すれば、また監禁の枠組みになる。

*3:つながりの作法 で問うているのは、この話だ。

*4:あらかじめイデオロギーを立ててしまったら、もうそれ自体が《主体化の方針》だから、原理的なことは何も問われなくなる。左翼コミュニティの問題は、ここにある。