「過程の主体としての価値」 メモ

マルクス資本論』原文(mew23, pp.168-169)と、*1
その邦訳『資本論 (1) (国民文庫 (25))』 pp.269-270 より(強調は引用者)

 Die selbständigen Formen, die Geldformen, welche der Wert der Waren in der einfachen Zirkulation annimmt, vermitteln nur den Warenaustausch und verschwinden im Endresultat der Bewegung.
 諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。


 In der Zirkulation G-W-G funktionieren dagegen beide, Ware und Geld, nur als verschiedne Existenzweisen des Werts selbst, das Geld seine allgemeine, die Ware seine besondre, sozusagen nur verkleidete Existenzweise.
 これに反して、流通 G-W-G では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。


 Er geht beständig aus der einen Form in die andre über, ohne sich in dieser Bewegung zu verlieren, und verwandelt sich so in ein automatisches Subjekt.
 価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。


 Fixiert man die besondren Erscheinungsformen, welche der sich verwertende Wert im Kreislauf seines Lebens abwechselnd annimmt, so erhält man die Erklärungen: Kapital ist Geld, Kapital ist Ware.
 自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。


 In der Tat aber wird der Wert hier das Subjekt eines Prozesses, worin er unter dem beständigen Wechsel der Formen von Geld und Ware seine Größe selbst verändert, sich als Mehrwert von sich selbst als ursprünglichem Wert abstößt, sich selbst verwertet.
 しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。


 Denn die Bewegung, worin er Mehrwert zusetzt, ist seine eigne Bewegung, seine Verwertung also Selbstverwertung.
 なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。


 Er hat die okkulte Qualität erhalten, Wert zu setzen, weil er Wert ist.
 価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。



価値が自動的な主体になる」ことと、「意味が自動的な主体になる」こと。
素材レベルの都合と、意味レベルの都合。*2
形式論理的な意味だけに拘泥することは、編成の自動化にはまり込む。*3

価値が主体となって、素材レベルが編成されてしまう。

素材編成を生きる時間は、たんに時計的な、均質な時間ではない。*4
その質的複雑さが、「主体としての価値」に強奪されている。
これが環境の、原理的前提。 そのロジックから単に抜けられる人はいない。


では私たちの主観性は、いかに編成されるべきか。
「主体が物質を生産する」のではなく、主観性そのものが物的過程として編成され、生産される。このモチーフは、収奪された編成過程を奪回しようとするものだ。



*1:佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』 p.337 の示唆から。

*2:cf.「貨幣の機能的定在が、貨幣の物質的定在を吸収する(Sein funktionelles Dasein absorbiert sozusagen sein materielles.)」(マルクス資本論 (1) (国民文庫 (25))』p.228)

*3:かといって、たんに論理を無視する語りは、それ自身が詰まらないフレームに閉じこもる。

*4:クロノス的ではなくて、アイオン的(参照)。