「ひきこもり支援とWEBデザインの脱カテゴリー指向について」(「アンカテ(Uncategorizable Blog)」) 【はてぶ】

思いもよらない角度からいただいた言及でした。

 業界の専門家に圧倒されて、クライアントが自分の問題の核心をうまく言語化できない状況が「ミクロの政治性」ということではないかと思います。

 あらゆる専門知識が内部に微妙な政治性を持っていて、背後にある制度と不可分の関係にある。全ての専門家は、そのような自分の足元を常時掘り起こすことを求められ

ひきこもりの場合、クライアント自身が「してもらう」だけでなく、みずからの思い込み*1の政治性をも掘り崩す必要があり、それがすでに “臨床的な” プロセスになっているのだと思います。
ただしそうした分析は、孤立していると本当に難しい・・・



【追記】

支援者や研究者など、“ひきこもりの専門家” にはいくら説明しても理解されない話が、essa さんには通じています。 本当に意外でうれしい切り口でした。
ひきこもりは、「硬直した労働」*2として成り立っている。支援する側も、硬直した労働ではどうしようもない。支援する側もされる側も、「より風通しの良い交渉や労働はどのように構成されるのか(営めるのか)」と検討したほうが、臨床的にも、政治的含意から言っても、適切なはずです。(そうでないと、硬直した順応主義になってしまう。)
ある目的を満たそうとするのに、すでにある道具立てで直接それを目指そうとする発想自体が間違っている*3
ひきこもっていた本人の言う言葉自体が、古いカテゴリーへの順応主義でしかないかもしれない*4。 ひきこもりは、支援する側もされる側も、追い詰められて、すぐに「順応主義」か「教条的反体制」*5に流れてしまう。必要なのは、置かれた状況の事情に精通しつつ、そこに分析と組み直しを咬ませることです。これは何も大げさなことではなくて、現場で仕事をされている方なら、いつの間にかこなしておられることでもあるのだと思います。――むしろそのような、「単なる順応ではこなせない、しかし単なる怠慢や逸脱でもない」という契機こそが、社会参加には重要なのではないでしょうか。



*1:それ自体が制度

*2:「抑圧」「否認」とほぼ同義に見える。▼他者との関係で換骨奪胎されない労働。それは他者から見れば、何もしていないに等しい。独りよがり。

*3:制度と付き合おうとするときなど、目的限定的には「カテゴリー」が使える。

*4:「当事者」神格化の誤り

*5:教条的反体制は、それ自体が硬直した順応主義です。