単なる順応主義 → 叫ぶ順応主義の幼児性 → 制度分析の成熟

 考えることが含意しているのは、社会契約への何がしかの留保なのである。それは、コミュニケーション能力の枯渇した先に、あるいは、コミュニケーション能力の手前にある。つまり、幼年期である。思考、すなわち、魂の最も高貴な場所であり、公共性そのものであるその場所には、社会から追放された、ものいわぬ子どもがいる。考えること、抵抗すること、それは、ものいわぬ子どもの仕事でなくていったい何であろうか。思考とは何よりも言語(の使用)の抵抗なのだから。 田崎英明無能な者たちの共同体』p.183)

現代の幼児性は、むしろ順応主義の形をしている。 幼児的な言語使用は、ひたすら「順応の誇示」を行う。

 空気による支配に甘んずることは、成熟による弊害の一つだ。 空気よりも文脈を読むためには*1、あえて「王様は裸だ」と叫ぶ子供を演ずるような一種の未熟さが必要なのかもしれない。 斎藤環 「〈空気〉より〈文脈〉を読め――KYの仕組み」)*2

「王様は裸だ」は、それ自体が傲慢なナルシシズムであり得る。 「自分は今、順応しない子供として振る舞っているんだ」。 形式的正義への無邪気な順応は、自分の成り立ちを分析しない。
専門性や役割機能への同一化は、「空気を読まない」ところまで徹底される。その徹底にこそ、幼児的な順応主義のナルシシズムがある。 それは逸脱者が、順応する回路を見つけて必死に社会復帰する姿でもある*3。 順応と一体化した自意識は、自分のことしか考えられないプライドになる。(暴れること、自分を傷つけることは、窒息の姿。)


ひきこもり経験があり、社会に復帰した人の一部は、異様なほど強迫的な順応主義者になり、周囲を威圧する。 これは、「かつては怠けていたが今は順応主義者」なのではない。 終始一貫して順応主義のままであり、順応主義ゆえに引きこもりは深刻になる。 本人の意向を超えて身体と一つになった過激な順応主義が問題になっている。(内的にインストールされた順応主義はカルト教のように度し難い。 ひきこもる状態に陥らずとも、ギリギリの順応状態にある人は、「順応のために何が必要か」しか見えなくなっている。)


場当たり的なナルシシズムを許容する相対主義は、教条的な順応主義と矛盾しない。 というより、「何もかもを許す」相対主義は、冷笑的な順応主義の温床となる*4。 自意識に駆動される欺瞞的な相対主義の中で、冷静な関係分析の努力は孤立する。


ひきこもった人の多くは、自分を社会から逸脱させる差異の疼き(うずき)を抱えつつ、いざ他者と関わろうとすると、順応主義のスタイルしか知らない。 このままでは、単なる逸脱と単なる順応主義を往復することしかできない*5。 むしろ、自分を逸脱に導く当のものを、社会参加の原動力にできないか。 私がかろうじてつないだ取り組みや人間関係は、そこを焦点にしている*6

    • 私が社会参加を継続できた理由は、「ひきこもりを問題にできた」からであると同時に、その核心部分にあったのは、「おのれ自身における差異を活かす形」*7だったこと、そこを評価くださる方々に出会えたことだ。 分析的な当事者発言の核心は、「自分の生きている場所で起きる差異」をロジカルに問題化するところにある。*8(ベタな自分語りは、他人に押し付けられた想像的な要望に応えることでしかない。)

文化が自意識メソッドに支配されていることと、制度に対する無力とが手を取り合っている。 差異の疼きを扱えない、自分のいる場所を論点化できない態勢では、「自意識過剰の、朴訥な政治オンチ」として振る舞わざるを得ない。 これは、「自分のことしか考えていない」姿であると同時に、本人にとっても不利益になっている。





*1:私(上山)は、文脈よりも制度を問題にしている。

*2:毎日新聞2008年1月13日「時代の風」

*3:「空気を読め」という順応に行けない人が、あるディシプリン固執して社会化とナルシシズムのチャンスを得ている。 それは強制された姿かもしれないが、しかし積極的に選ばれてもいる。

*4:これは、ジジェクらが分析したような単なるシニシズムでもない。 「どっちの教条のほうが優位か」という争いになる。

*5:単なる順応主義は、大抵いつも「裏目に出る」。 そもそも、順応と逸脱のゲームを繰り返すことにどんな意味があるのか。どう転んでも、死ぬまでトラブルは続く。 トラブル自体が内発的に生きられるスタイルを問題にしなければ、生き延びることは自意識地獄のままだ。

*6:逆に言うと、私の起こすトラブルはつねにその周辺にある。 人が社会参加する理由は、人がトラブルを起こす理由だ現代社会では、「ニヒルな順応主義」のナルシシズムだけが突出している。 そこには容易にオカルティズムが侵入するし、相対主義の凪(なぎ)に見えて、再起動したときには過激な順応主義が支配している。

*7:ドゥルーズが「絶対的脱領土化」と語っているのは、この話ではないか。 領土化を目指す分析ではなく、差異が差異のままに徹底して生きられる分析。 「分析の consistency」。 それは徹底して mature でありつつ、順応の対極だ。

*8:理解するまでにずいぶん時間がかかったが、「制度を使った方法論」への取り組みは、同じ方向性(スタイル)にある。 単なる順応主義でも、単なる反抗でもなく、違和感そのものを継続の資源とすること。 その踏ん張りはしかし、まずは幼児性としか見られないし、さらに言えば、異常者(aliéné)と見られる。 単なる逸脱ではなく、分析こそが異常者と見られる。