「主体構成の新しいあり方」

先日ネット視聴したシンポ(参照)では、

  • 「オタクが、主体構成の新しいあり方かもしれない」(シュテフィ・リヒター)
  • 「社会的文脈の無関連化によるコクーニング(繭化) ⇒解放を期待した」(宮台真司

という視点が示されていました*1
私はまさにこの2点についてこそ、学問や支援の現状を問い、問題提起を行なっています*2


既存の《当事者》概念は、意識と関係性のディテールを無関連化する繭(コクーン)であり、属性によって規定される当事者性は、キャラクターとして固定される。 それを前提にした活動や学問はきわめて抑圧的・嗜癖的で、実際の苦痛機序を解離的*3に放置する(無関連化による自足)。


「言葉の事業」と「実際の関係性」をつなぐ方法として、《制度を使った方法論》を参照してきたのですが、これはいわばあまりにフリーハンドであり、お互いがお互いの分析に対して無関心であり得るため(合意する手続きがない)、けっきょく何も変えられません。 私にとっては、一度はどうしても通過する必要のあった文脈ですが、このままでは、自傷的な倫理意識で終わりかねない。


【「」につづく】


*1:これはそのまま、斎藤環氏の臨床上の主張でもあります。 実際にこのシンポでは、斎藤環氏が肯定的に引用されています。

*2:学問や支援の方法論は、主体構成のスタイルであり、それ自体がコクーニングの作法であり得ます。

*3:「乖離ではなく解離なのはなぜ?」とのことでしたが(参照)、それには東浩紀斎藤環が「解離」という単語で彼らの積極的な主体論を展開していることも関係しています。 私にとってそのままでは耐えられない分解状態を、彼らは肯定的に語っているし、現にそのまま実演している。 私はそれを単に「古き良き近代主義」で統合しようというのではなく、むしろ別の主体構成のあり方によって――役割やメタ理解ではなく《労働過程》の部分で――統合する提案をしています(これが最も伝わりにくい)。 ▼私が問題にしているのは、役割意識の水平的解離(斎藤環)(宮台真司)や、《動物層/人間層》の解離(東浩紀)ではなく、言説事業と関係実態の解離です。