「症状化」とアリバイ競争

ICCシンポジウム:「ネットワーク社会の文化と創造」、斎藤環の発言より:

 精神病のありように関しては、ネットワークはほとんど影響していない。 ただ、別の領域があって、心因性の問題――ヒステリー・摂食障害・ひきこもりなど――に関しては、ネットワークの影響はでかいんです。 精神病になるかならないかという境界線に関しては、ネットワークはほとんど影響しませんけれども、心に原因があって起こってくる問題に関しては、かなりネットワーク的なものが関与してくる。 (略) 70年代後半ごろから、浅い葛藤で問題行動を起こす若者が増えている。 【55分あたり】

こうした状況に対し、斎藤環の言説は、「消費文化+表象文化論」という80年代のスタイルをそのまま踏襲している。 そのご自分の臨床=批評の文法については、ほとんど分析されない。 それ自体が氏の実存の制度を成している。

 オタクの可能性ということを、必ずしも冗談ではなく申し上げたのは、こういう生き方というのも、「強い主体」を回復しないでまったり生きるための一つの方法論としてあるんではないかということです。 こういうオタク的文化の可能性みたいなものについて、「症状化」ということをひとつのキーワードにして。 つまり、再帰性のサイクルをいかに止めるかということを考えたときに、趣味とか趣向によって、あるいはセクシュアリティによって――私はオタクというのはセクシュアリティの特異なあり方だと思っていますので、それによって再帰性のサイクルをひょっとしたら止めることができるかもしれない、ということを一つの可能性として提示して、(以下略) 【1時間10分あたり】

これでは、症状をベタに生きることしかできない*1
彼の提言は、一つのディシプリンに無批判な信仰状態をベタに実現せよと言っているだけだ*2。 つまり「ひきこもりオタク化計画」は、対象を決めない洗脳活動の形をしている*3


宮台真司は同シンポで、「エリートたる斎藤環が、大衆に対して “お前らオタクやっとれ” と言っている」というのだが、この反論は、全体性を参照できる奴とできない奴を分ける議論でしかない。 エリートになりたければ(輝く自意識を手に入れたければ)、全体性を参照せよ。――これでは、全体性への自意識を問題にする宮台真司やその読者は、絶対に自分自身を(そのローカルな場所を)分析しない。 「全体性を参照できているか否か」のゲームであり、それ自体が宗教の出世競争のような形をしている。*4


アリバイ競争に酔っ払う自意識ばかり。 再帰性の現場である、「努力プロセスそのものの困難」を誰も論じない。


内容そのものの課題がある一方で、「その課題に没頭できない」という動機づけの課題がそのまま残されている。 メタなアリバイ競争と、ベタな没頭の試行錯誤が乖離している。 知性の仕事と現場の仕事が、端的に分離されている*5


どんなに思想を無視していても、現場はすでに思想を生きている。 どんなに抽象的な議論をしていても、その活動そのものは過程=現場を生きている。 ベタに没頭しようとすることも、ベタに理論に淫することも、ひたすら再帰性を強化する。



*1:ここで斎藤氏は、ラカンを参照している。 ラカン派では、《症状》は単に「解消すべきもの」ではなく、それに同一化することでみずからの欲望の道を進むことでもある(参照)。

*2:私自身が、「ベタな信仰状態を実現するための努力」を長く続けてしまった。

*3:何でもいいから首尾よく「ハマる」ことが推奨される。 ご家族や臨床家は、「ハマる」ことの確率的成功を期待して「いろいろやってみたら?」としか言えない。 首尾よく何かに「没頭」すれば、そのあり方には批評的介入が為されない(腫れ物に触るような態度)。 臨床家もご家族も、そして本人も、いつまでたっても交渉主体になれない。――これでは、周囲がメタにアリバイを確保しているだけだ。(本人が “自発的に” ハマれば、洗脳や操作主義を問われない。)

*4:ついでに言えば東浩紀は、メタ語りへの没頭(内容への同一化)において、分析されない端的な自己を生きる。 いつの間にかそのように語るしかない自己が周囲との間でどのような関係を築くのか、それは「動物化」や「複数の超越論性」と呼べるような事情にあるのかどうかは、分析されない。

*5:「理論は過激に、臨床は素朴に」(斎藤環ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (シリーズCura)』あとがき)。 理論はオタク的アイテムのように工夫され、「理論に取り組む態度」そのものは分析されない。 人間関係を維持するには、同じくオタクになるか、「観察対象」になるしかない。