先日の合評会では、酒井さんから次のような趣旨のご発言がありました(参照):
アカデミック・ポストのある人は、その質問には危なくてコメントできません。
私がエスノメソドロジー(EM)に求めたものと、「やっぱり無理ではないか」という懐疑は、↑この一文に示されています。
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- EM は、「言葉にすることが憚られるが、でもそれを言葉にしなければ問題に取り組んだことにならない」ことを言語化するために、手続きになってくれるか。 それとも、EM という方法自体が、問題の隠蔽に加担するものでしかないのか。
――いや、この言い方は正確ではありません。
どういう方法を選んだとて何某かの抑圧は避けられないのですから、本当の焦点は、それが
抑圧や忘却に気づくたびにそれを改善できる手続き
を持っているかどうか、です。
何を言葉にしなければならないかがあるルーチンで決まっていて、それが《決まっている》のが耐え難い。
しかし逆にいうと、《言葉にしなければならない現実》を各人がバラバラに主張し、収拾がつかない状況も、たいへん抑圧的です。 明確な手続きがないため、お互いの「降りる権利」も保障できず、お互いが縛られ合う*1。 《自由》というイデオロギーがアリバイになるぶん、かえって悪質かもしれない。
私は、一般性や客観性を装う議論に抗議していますが、
厄介なのは、当事者性や主観性を話題にすることが、
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- 発言者の実存
- 主観性を特権化するイデオロギー
に振り回されることです。 これでは周囲は、「大事な話かもしれないが、言及すると自意識に巻き込まれるから無視する」が最善になってしまう*2。
ある言説事業は、別の言説事業を「見るべき現実を見ていない」と批判するのが常だと感じています*3。 ここで必要なのは、見るべき現実をただベタに主張することではなく、《見るべき現実を見る》という振る舞いを制度的に位置づけ直すことです。 ⇒ この私の要請と、エスノメソドロジーがどういう関係をもち得るかが、私の質問になります。
*1:実定法なしにお互いに被害者意識をぶつけ合うようなものです。
*2:主観的現実の恣意的権限主張は、手続きがないままお互いに「話を聞け!」になるので、収拾がつきません。
*3:ガーフィンケルの「判断力喪失者」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.77)もそういう批判でした。