エスノメソドロジーは、リング上にいる?

以前に私が接した「社会学者」は、自分のやっている学問事業と、目の前の関係実態が完全に解離していました*1。 私が今回エスノメソドロジー(EM)の解説書を読んで決定的だと思った点の一つは、どうやら EM は、単にメタな知的理解をもたらそうとしているのではなく、知的理解をもたらす活動ごとオブジェクト・レベルの関係性に巻き込まれ、その「巻き込まれている」という事実ごと学問事業に内部化しているように見えたことです。
〔以下、解説書から得た理解に基づいていますが、〕 既存社会学は、秩序を「背後にある何か」と見ていて、それは議論上、学者の関係実践とは解離的に固定されている*2。 いっぽうエスノメソドロジーは、関係秩序を記述しながらそれを協働でつくり直すような関係実践に、自分が参加していないかどうか。


「EM 研究は、対象への規範的コミットメントを避けることを意味するわけではない」という酒井さんのご指摘*3。 あるいは、(お返事の中で他の著者の発言を引用するべきではないかもしれませんが、)

 「あたりまえ」の領域に “あたりまえでなく” 降りたち、「なぜ、どのようにして “あたりまえ” が “あたりまえ” として気づかないかたちで人々が行為しているのか」を克明に記述し、「あたりまえ」の領域にはらまれたさまざまな問題を摘出し、それを解体・再編していく遅々とした営みが「エスノメソドロジーという “現実” を生きること」だ。 好井裕明,『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』p.325)

ここで問われているのは、いわば観客席で解離的な知的ゲームに耽ることではなく、
私たちの関係実態をどうするか――つまり、《日常を秩序化する方針そのもの》だと思うのです。 EM は、「対象を理解できるか」だけでなく、「対象との関係をどう生きるか」のレベルにあるように見えます。


【(4/6)につづく】


*1:そこでは「社会学ディシプリン」という言葉が、威圧のキーワードになっていました。

*2:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.66 など

*3:概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』p.265