《居場所》の政治と、解離的な知性
どうやって孤立を回避するか。その方法論で、立場が分岐している。なのに、そこを誰も語らない。
「社会的包摂」というが、自己を対象化する分析を試みれば、たいていの共同体からは排除される*1。 むしろ、分析の努力を通じて孤立が回避されなければ。つまり、ふつうの共同体では孤立の原因になる努力が、つながりの理由になる。
《居場所》というどうしようもない言葉やモチーフが、ミクロな政治にまみれていることを無視してはならない。ところが既存のアカデミズムや知識人は、現場レベルの技法や工夫について、何も当事者的な試行錯誤を語れない*2。 臨床家も、一対一の技法は話題にしても、《居場所》そのものの政治は語らない。しかし、居場所の政治は、職場の政治につながっているし、家の中にも政治がある。
宮台真司の言説においては、「act locally」は、「フレンドリーに世話を焼く」というぐらいの意味で、「俺もローカルに頑張ったんだ」というアリバイ作りでしかない。その「act locally」そのものにおける分析や技法が必要なのに。 メタに語ればアリバイの作れる知識人は、具体的な技法を検討しない。 それは、「理論は過激に、臨床は素朴に」と語る斎藤環も同じ。 知識人が、みずからの当事者性を解離させる知性を推進している。