「脱政治化する言説戦略」

酒井隆史暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)』p.103-4

 ここで、ランシエール(Jacques Rancière)にならって、〈政治的なもの〉を中和し、脱政治化する複数の言説戦略をみてみましょう。

  • アルシ・ポリティクス
    • 共同体主義タイプの脱政治化。閉じられて有機的に組織された同質的な共同体に人は帰属するがゆえに、そこでは政治的な出来事は生じえない。 【上山注:すべてが「仲直り」に落とし込まれるような言説方針でしょう。】
  • メタ・ポリティクス
    • マルクス主義タイプの脱政治化。階級闘争のような政治的抗争は肯定されるものの、それは別の場面(つまり経済的過程)の影にすぎず、さらに究極の目標は、政治の消去にある。

そして、スラヴォイ・ジジェクはこのランシエールの区分にもう一つ、つけ加えています。それはカール・シュミットの友/敵理論です。シュミットは、政治的なものを友/敵を分割する振るまいである、という点で敵対性の次元に位置づけますが、しかしそれもやはり政治的なものを否認しているというのです。

  • ウルトラ・ポリティクス
    • 政治の直接の軍事化を介して抗争を極端にまで押し上げることで、抗争を脱政治化させる。



こうやって「脱政治化」を並べるのはいいとして、それを語る自分自身は、どうみずからを政治化するのか。――それを考えないのであれば、この分類表自体が「脱政治化の言説戦略」になってしまう。
「友と敵を単純に分けてはいけない」というのが脱構築だとしても、それを言うだけでは、語っている本人はメタに居直ってしまう。必要なのは、自分自身を含みこんだ事情のディテールを描き出す努力だが、そのような分節の努力こそが排除される。
政治化とは、《交渉》という努力のラディカル化であり、交渉のフォーマットまで含めて考え直そうとすることだ。▼動物化とは、「交渉の安易化」にあたる。安易化した交渉は、フォーマットへの再考察や換骨奪胎を許さない。