相対的魅力(特殊性)と絶対的魅力(単独性)

引きこもりの苦しみに、「流動性の高すぎる世界での自意識」が関わっているとしたら、性愛をめぐる考察が何かをもたらしてくれるかもしれない。
「モテと愛のちがい」を考えるうちに、「固有名」論と「無意識的な愛」の話を掛け合わせ、何か雛型を作れないか、と思うようになった。ぜんぜん考えを練れていないが、アイデア・スケッチとして書いてみる。


固有名をめぐる「三種の哲学的言説」については、東浩紀氏『存在論的、郵便的ISBN:4104262013 の p.248-9 にきわめて簡潔に整理してある。が、ここでは p.40-41 の柄谷行人氏の議論を要約した部分から。(段落分け、太字や色変えは私です。)

 もし名「アリストテレス」が「アレクサンダー大王を教えた男」という確定記述*1により定義されるとすれば、その反実仮想言明は単なる論理矛盾、「『アレクサンダー大王を教えた男』はアレクサンダー大王を教えなかったかも知れない」という文へと転化してしまう。
 この逆説は柄谷にしたがえば、「固有名は個体の諸性質の記述とは無関係であり、端的に個体を個体として指示する」ことを意味する。そこで彼は個体の諸性質を「特殊性」と呼び、固有名が指示する個体の個体性、つまり「単独性」と区別することを提案した。諸定義の束が保証する「特殊性」とそれを剰余する「単独性」というこの対は、
以下略



「若い・美しい・お金持ち・優しい」などの「魅力の束」によって成立する「モテ」は、「特殊性」にあたる。このレベルでは「好きになった理由」(確定記述)をいくらでも列挙でき、各理由において「それ以上」の人が現れれば、相手は代替可能。
「魅力的な人だなぁ」(まだ代替はきく)と思っていた相手が、いつの間にか代替のきかない絶対的な存在になっていることに気付いてショックを受ける(愛してしまっていることに遡及的に気付く)。

 好きになる、なってゆく、って過程で、二人のあいだに刻んできた歴史がお互いをますますかけがえのないものにしてゆくのだから、お互いの唯一性があるのはまちがいなくて、それは時間がたつほど積み重なってゆく。そうなれば、相手の何が魅力だから、っていうのはもうあまり意味をなさない。*2



確定記述(魅力の束)を取り替えても残る「愛」の剰余(「単独性」)。この段階では、相手の魅力の描写は固有名のトートロジーになる。 → 「おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの!」
周囲の人間が「その人は○○の理由でダメな人だから、やめておきなさい」と(確定記述レベルで)説得しても、効果がない(「恋は盲目」)。


「好き」(like)は特殊性【確定記述の束】、「愛」(love)は単独性【絶対的剰余】。
確定記述レベルの相対的なモテ競争は、意識レベル。遡及的に気付かれる絶対的な「愛の剰余」は、無意識レベル。 → 「僕の無意識が彼女を愛したとき、僕は本当に彼女を愛している」という説。


――基本的には、以上のような話です。



*1:諸性質・定義の記述

*2:id:Ririka さん「かけがえのなさとそのわけ。」より。