個体の単独性 → 関係の単独性?

固有名の循環」にはじまり、「無意識的な愛」「愛国心」「愛情生活」などと迷走を続けている「特殊性/単独性」の議論ですが、リニアな議論展開をするにはまだまだの状態。
このテーマは今後も考え続けていくと思うのですが、今日は懸案だった「本当の愛」を中心に、思い付きをいくつかメモ。

  • 先日、「≪対象a≫の遍在性」を問題にしたが、よく考えたら「ジュリエットがロミオに振り向けるような単独的な愛」も、共時的・通時的に遍在する(泣)。
    • 対象a≫と「単独性」の関係はやっぱりよくわかんないです。
    • 「かけがえのない恋人」は、「いわくつき*1この1万円札」に対応するか。【他の1万円札と「この1万円札」は社会的機能としては変わりがないが、私にとって「この1万円札」は代替不可能である。 → 「1万円札」は数えることができるが、「この1万円札」は数えることができない。】


  • 目の前の恋人は、「愛のイデア」の具現化だろうか。
    • 「相手の存在」を実体化して「イデアの具現化」としているのか。それとも、「相手との関係性」を名指しているのか(「イデア化された関係性」の具現化)。


  • よく「友達以上、恋人未満」という言い方をする。 「この人は、私にとって≪友達≫だろうか、≪恋人≫だろうか」
    • 「友達」と呼ばれる関係性があり、「恋人」と呼ばれる関係性がある → 「私があの人と維持している関係は、どちらの名称で呼ばれるべきだろう」。 つまり「関係性」をイデア的に想定し、どちらのイデアにより近いか、を問題にしている。


  • 相手が単独的であり代替不可能ならば、「この人との関係」を名指すにも、単独的な固有名が必要ではないか。
    • 80年代に浅田彰氏が(ドゥルーズを参照しつつ)「n個の性」と語ったときにはピンと来なかったが、「対象の単独性 → 関係の単独性」という道筋ならば、「n個の関係」は理解できるか。


ここら辺で、「まったり革命」から「愛国」に向かう宮台真司氏の議論が問題になると思うのですが、それはまた追い追い。




「単独性と愛」の話、完全に当ブログの連載企画になりましたね…。





*1:「死ぬ間際の父に手渡された」など。

*2:ここにまたしても、三島由紀夫金閣寺』のモチーフが見え隠れ。