私たちに「存在意義」をもたらす「物語」

 上記の中塚氏の論文に関連して、精神科医らしい人の日記から。

 未熟な自己愛を持ち、自己愛の傷つきに耐性のない彼らは、万能的自己像が傷つくのをおそれて他人からひきこもります。でも、彼らはやはり「なかま」を、他者との関わりを求めているわけです。
 普通だと、他者と関われば現実原則にさらされるわけで、万能的な自己像は傷つかずにはいられません。しかし、「前世」という、この世とは関わりのない場所に万能的自己像を保持しておけば、自己愛の傷つきを怖れることなく関わりを持つことができます。他の自己愛者も、同じ前世を共有しさえすれば、傷つくことなく関わりに参加することができます。
 「あなたは前世では魔術師だったのよ!」とか言われても、現実に適応している人なら「はぁ?」と引くだけでしょう。でも、未熟な自己愛を抱えたまま、圧倒的な空虚感を感じて日々をすごしている人であれば、心の片隅ではありえないと思いつつも、「そうだったのか!」と思ってしまうのではないでしょうか。それはまさに“奇跡”です。きのうの「艦長からのメッセージ」ですね。かくして、「前世」のネットワークは広がっていく、と。
 つまり、「前世」とは、万能感を維持したまま他者と関わる彼らなりの方法なんじゃないでしょうか。

 ここでは彼の言う「自己愛型ひきこもり」が、自分の存在に万能感をもたらす「物語」との関係で語られている。
 私が上の方で考えた「敵との対峙」は、こういう空想的な「物語」を呼び込んではいけない・・・・
 断じていけない。
 いや、「敵の存在」こそが、自分を巻き込んだ存在世界を「フィクション」として立体的に立ち上げ、努力を駆動するようになるのでしょうか。


 「前世」や「私の存在の意味」を空想するこうした夢想家たちを、私は激しく嫌悪します。それは対話的に見えて、相手に自分の意味を押し付けるにすぎない。
 私はおそらく、物語との関係における万能感をもって「敵」と対峙するのではなく、打ちひしがれた一個人として、空想的にフィクション化されることのない(脱神秘化された)敵と対峙する。その相手が「敵」であるのは、「物語」との関係においてではなくて、ただそのたびごとに発せられる「言葉」や「行動」においてだ。相手を実体化してカテゴライズするのは、それ自体が対象の神秘化だ(ただし、ほとんどの個人は、カテゴライズしても不都合がないぐらいに変化に乏しいものであるが)。
 「自分の戦い」が見出せない時に、たぶん人は「意味」を見失う。